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 今日は、江戸時代後期の安政元年に、日本とロシアとの間で「日露和親条約」が締結された日ですが、新暦では1855年2月7日となります。
 日露和親条約(にちろわしんじょうやく)は、伊豆国下田長楽寺(現在の静岡県下田市)において、江戸幕府代表の筒井政憲、川路聖謨とロシア帝国代表のプチャーチンとの間で締結された条約で、「下田条約」、「日露通好条約」とも呼ばれ、前年の「日米和親条約」に準じて結ばれたものでした。
 歴史的には、1792年(寛政4)にラクスマンが根室に来航し、通商を要望、1804年(文化元年)にロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、長崎に来航して日本との通商を求めたものの、拒否されます。また、1811年(文化8)にロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されるという事件も起こりました。
 その中で、1853年(嘉永6)にロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れます。しかし、交渉はまとまらず、11月下旬には帰国することとなりました。
 翌年にプチャーチン提督は再びディアナ号で来航して交渉が行われたが交渉締結に至らず、交渉の場を伊豆国下田に移して交渉を続行、1855年(安政元年12月21日)に「日露和親条約」の締結に至ったものです。その内容は、千島列島における日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする、樺太においては国境を画定せずにこれまでの慣習のままとする、ロシア船の補給のため箱館(函館)・下田・長崎の開港(条約港の設定)、ロシア領事を日本に駐在させる、裁判権は双務に規定する、片務的最恵国待遇となりました。
 尚、条約を作成するにあたり、双方に日本語ロシア語に通じたものがいなかったので、蘭語(オランダ語)を介して、日本語とロシア語の三ヶ国語で作業が行われました。その結果、オランダ語・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳されることになり、日本語条文には、第二条のクリル列島の部分に異なる箇所があることが指摘されています。
 また、1854年(嘉永7年11月4日)に発生した、安政東海地震(マグニチュード8.4)で、下田港停泊中のディアナ号が大きく損壊し、伊豆・戸田への曳航中に沈没、伊豆国戸田で新艦を建造する事態も起こりました。
 この条約では、最恵国待遇条項は片務的であったため、3年後の1858年(安政5)に締結された「日露修好通商条約」では双務的なものに改められ、また、樺太の雑居地を解消するために1875年(明治8)に「樺太・千島交換条約」が締結されています。
 以下に、「日露和親条約」の日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日露和親条約」1855年2月7日(安政2年12月21日)締結

<日本語訳>

安政元年甲寅十二月廿一日(西曆千八百五十五年第二月七日魯曆第一月廿六日)於下田調印
安政三年十一月十日(西曆千八百五十六年十二月七日魯曆十一月廿七日)於同所本書交換

日本國と魯西亞國と今より後懇切にして無事ならんことを欲して條約を定めんか爲め魯西亞ゲイヅルは全權アヂュダント、ゼネラール、フィース、アドミラール、エフィミユス、プーチャチンを差越し日本大君は重臣筒井肥前守川路左衞門尉に任して左の條々を定む

 第一條

今より後兩國末永く眞實懇にして各其所領に於て互に保護し人命は勿論什物に於ても損害なかるへし

 第二條

今より後日本國と魯西亞國との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に屬し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亞に属す「カラフト」島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし

 第三條

日本政府魯西亞船の爲に箱館下田*2*長崎の三港を開く今より後魯西亞船難破の修理を加へ薪水食料缺乏の品を給し石炭ある地に於ては又是を渡し金銀錢を以て報ひ若し金銀乏き時は品物にて償ふへし魯西亞の船難破にあらされは此港の外決して日本他港に至る事なし尤難破船に付諸費あらは右三港の內にて是を償ふへし

 第四條

難船漂民は兩國互に扶助を加へ漂民は許したる港に送るへし尤滯在中是を待つ事緩優なりと雖國の正法を守るへし

 第五條

魯西亞船下田箱館へ渡來の時金銀品物を以て入用の品物を辨する事を許す

 第六條

若止む事を得さる事ある時は魯西亞政府より箱館下田の內一港に官吏を差置へし

 第七條

若評定を待へき事あらは日本政府是を熟考し取計ふへし

 第八條

魯酉亞人の日本國に在る日本人の魯西亞國に在る是を待つ事緩優にして禁錮する事なし然れ共若し法を犯すものあらは是を取押へ處置するに各其本國の法度を以てすへし

 第九條

兩國近隣の故を以て日本國にて向後他國へ許す處の諸件は同時に魯西亞人にも差免すへし

右條約

魯西亞ケイヅルと日本大君と又は別紙に記す如く取極め今より九箇月の後に至りて都合次第下田に於て取換すへし是に因りて兩國の全權互に名判致し條約中の事件是を守り雙方聊違變ある事なし

 安政元年十二月廿一日(魯曆千八百五十五年第一月廿六日)

  筒井肥前守 花押

  川路左衞門尉 花押

  エフィミユス、プーチャチン 手記


 日本國魯西亞國條約附錄

 安政元年甲寅十二月二十一日(西曆千八百五十五年第二月七日「魯曆第一月二十六日」)於下田調印

魯西亞國全權ゼネラール、アヂュタント、フイース、アトミラール、ヱフィミユス、プーチャチンと日本國委任の重臣筒井肥前守川路左衞門尉相定むる所の條約附錄

 第三條

魯西亞人下田箱館に於て市中近邊自由に俳徊することを許すと雖も下田は犬走島より日本里數七里箱館に於ては同五里を限とす尤寺社市店見物且旅店取建迄は定むる所の休息所に至ると雖も人家には招待なくして決て立入る事を許さす長崎に於ては追て他國の爲に取極る所に從ふへし且港每に埋葬所を取極め置へし

 第五條

日本にて役所を定め置品物渡方並魯西亞人持越たる金銀貨幣品物も其所に於て取扱ふへし魯西亞人市店にて撰みたる品は商人賣直段に應し船中持渡の品を以て辨すへし尤役所に於て日本役人取計へし

 第六條

魯西亞官吏は安政三年(西曆千八百五十六年)より定むへし尤官吏の家屋並地所等は日本政府の差圖に任せ家屋中自國の作法にて日を送るへし

 第九條

何事に依らす外民に許す所は魯西亞人にも談判なくして一同差許すへし

右附錄の事件條約本文同樣是を守りて違失なき爲兩國の全權名判する者也

 安政元寅年十二月二十一日魯曆千八百五十五年一月二十六日

  筒井肥前守 花押

  川路左衞門尉 花押

  ヱフィミユス、プーチャチン 手記

     外務省記録局『締盟各国条約彙纂』[第1編]より

☆江戸時代から明治維新期の日露間の外交関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1792年(寛政4年10月20日) ラクスマンが根室に来航し、通商を要望する
・1793年(寛政5年6月8日) ラクスマンが回航して箱館に入港する
・1804年(文化元年) 日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航する
・1811年(文化8年) ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁される
・1853年(嘉永6年) ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れる
・1853年(嘉永6年11月下旬) プチャーチン提督は長崎に滞在するが、交渉はまとまらず帰国する
・1854年(嘉永7年) プチャーチン提督が再び来航して交渉が行われたが、交渉締結に至らず
・1855年(安政元年12月21日) 「日本国魯西亜国通好条約」が締結され、日ロ間の国境が画定する
・1858年(安政5年7月11日) 「日露修好通商条約」が締結される
・1867年(慶応3年11月18日) 「魯西亞國新定約書」が締結される
・1875年(明治8年)5月7日 「樺太・千島交換条約」が締結される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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