今日は、江戸時代中期の宝永6年に、第113代の天皇とされる東山天皇が亡くなった日ですが、新暦では1710年1月16日となります。
東山天皇(ひがしやまてんのう)は、1675年(延宝3年9月3日)に霊元天皇の第四皇子(母は敬法門院松木宗子)として誕生しましたが、本名は朝仁(あさひと)と言いました。1682年(天和3)に儲君 (もうけのきみ) となり、親王宣下されて、翌年には立太子礼を経て皇太子となります。
1687年(貞享4年)に元服とともに受禅し、霊元天皇の譲位にともない践祚、第113代とされる天皇として即位しましたが、父・霊元上皇が院政を敷きました。同年に221年間途絶えていた大嘗祭の儀式を復活させ、翌年には「新嘗御祈」という形で略式に新嘗祭を再興するなど朝儀が幕府の賛助によって復活され、朝幕間の融和が進みます。
1694年(元禄7年)に霊元上皇は政務の天皇への移譲を宣言しましたが、実権は依然として上皇の手中にありました。1694年(元禄7年)に幕府の援助で賀茂祭が再興され、1698年(元禄11年)には第5代将軍徳川綱吉による江戸上野寛永寺の根本中堂落慶で、天皇が「瑠璃殿」の三字の宸筆を与え、1705年(宝永2年)に幕府は朝廷御領1万石を加増し、計3万石となるなど幕府と朝廷間の関係が改善されます。
1709年(宝永6年)に子の慶仁親王(中御門天皇)に譲位し、父・霊元法皇を抑える形で自ら院政を開始したものの、同年12月17日に、天然痘にかかって、京都において数え年36歳で亡くなり、京都泉涌寺内月輪陵に埋葬されました。尚、歌を良くし、歌集として『東山院御詠草』が残されています。
〇東山天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1675年(延宝3年9月3日) 霊元天皇の第四皇子(母は敬法門院松木宗子)として誕生する
・1682年(天和3年3月) 儲君 (もうけのきみ) となる
・1682年(天和3年12月) 親王宣下がされる
・1683年(天和3年2月) 立太子礼を経て皇太子となる
・1687年(貞享4年1月) 元服とともに受禅する
・1687年(貞享4年3月21日) 霊元天皇の譲位にともない践祚する
・1687年(貞享4年4月) 第113代とされる天皇として即位式をあげる
・1687年(貞享4年11月16日) 長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させる
・1688年(元禄元年) 「新嘗御祈」という形で略式に新嘗祭が再興される
・1690年(元禄3年) 幕府の後押しを受ける近衛基熙が霊元上皇の後押しを受ける一条兼輝を失脚させて朝廷政治の実権を掌握する
・1694年(元禄7年) 霊元上皇は政務の天皇への移譲を宣言する(実権は依然として上皇の手中にあった)
・1694年(元禄7年) 賀茂祭が再興される
・1697年(元禄10年) 母・松木宗子(敬法門院)の信任の厚かった議奏中御門資熙の更迭問題を巡って両親と対立する
・1698年(元禄11年) 第5代将軍徳川綱吉による江戸上野寛永寺の根本中堂落慶で、「瑠璃殿」の三字の宸筆を与える
・1700年(元禄13年) 幕府に無断で武家伝奏の正親町公通を罷免する
・1701年(元禄14年3月) 江戸へ派遣した勅使、柳原資廉・高野保春の接待をめぐって、松之大廊下の刃傷事件が発生する
・1705年(宝永2年) 幕府は朝廷御領1万石を加増し、計3万石となる
・1707年(宝永4年11月) 富士山の宝永大噴火が起こる
・1709年(宝永6年) 子の慶仁親王(中御門天皇)に譲位。父・霊元法皇を抑える形で自ら院政を開始する
・1710年(宝永6年12月17日) 天然痘にかかって数え年36歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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