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 今日は、江戸時代前期の正保2年に、臨済宗の僧沢庵宗彭がなくなった日(沢庵忌)ですが、新暦では1646年1月27日となります。
 沢庵宗彭(たくあん そうほう)は、安土桃山時代の1573年(天正元年12月1日)に、但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市)において、山名祐豊の重臣だった秋庭綱典の次男として生まれました。1580年(天正8)、8歳のときに但馬山名家が羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父が浪人となり、1582年(天正10)に出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得ます。
 禅に志すようになり、1586年(天正14年)に出石の宗鏡寺塔頭勝福寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しました。1592年(文禄元)に董甫が宗鏡寺に来り、1594年(文禄3)には薫甫が大徳寺住持となり上京したため、連れられて大徳寺三玄院に入ります。
 大徳寺の諸老に参じましたが、1599年(慶長4)に江州佐和山に移り、翌年の関ヶ原の戦いを経て、石田三成の没後、大徳寺三玄院に帰りました。1601年(慶長6)に堺に移り、詩文を文西に学び、翌年に和歌を細川幽斎に学び、1603年(慶長8)には一凍紹滴に参じ、翌年に一凍が印可し、初めて沢庵と号します。
 1607年(慶長12)に大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに堺南宗寺にも住持し、1609年(慶長14)には、大徳寺の第154世住持に出世するも名利を求めず、3日で去って堺へ戻りました。1615年(元和元)に南宗寺が大坂夏の陣の兵火にかかりましたが、1619年(元和5)には再興が成ります。
 1620年(元和6)に郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、投淵軒と命名して隠棲生活に入り、翌年には『理気差別論』を著しました。1626年(寛永3)に「禁中並公家諸法度」の励行が達せられ、大徳寺の出世が禁ぜられるなどの紫衣事件が起こると、翌年にはこれに反発して京に上り、大徳寺の僧侶をまとめ、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行います。
 これが幕府の忌諱に触れ、1629年(寛永6)に江戸へ召喚され、同年7月には有罪とされて出羽国上山に配流されました。しかし、1632年(寛永9年)に大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、江戸に帰り駒込に住むことになります。
 その後、後水尾天皇・第3代将軍徳川家光の厚遇を受け、家光の命により、1639年(寛永16年)に江戸品川に東海寺が完成し、開山となりました。1641年(寛永18)には、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されます。
 詩歌・俳諧・書画・茶道にも通じたものの、病を得て、1646年1月27日(正保2年12月11日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなりました。

〇沢庵宗彭の主要な著作

・『理気差別論』(1621年)
・『東国紀行』(1629年)
・『鎌倉遊覧記』(1633年)
・『木曽路紀行』(1634年)
・『東海道の記』(1636年)
・『祠堂記』(1643年)
・『不動智神妙録』
・『沢庵和尚法語』

☆沢庵宗彭関係略年表(日付は旧暦です)

・1573年(天正元年12月1日) 山名祐豊の重臣だった秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれる。
・1579年(天正7年) 父綱典が沢庵の出家を約束する。
・1580年(天正8年) 8歳のとき但馬山名家が羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父が浪人となる。
・1582年(天正10年) 出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得る。
・1585年(天正13年) 禅に志す。
・1586年(天正14年) 出石の宗鏡寺塔頭勝福寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名する。
・1591年(天正19年) 勝福寺の希先が示寂する。 
・1592年(文禄元年) 董甫が宗鏡寺に来る。
・1594年(文禄3年) 薫甫が大徳寺住持となり上京したため、連れられて大徳寺三玄院に入る。 
・1596年(慶長元年) 大徳寺の諸老に参じる。 
・1599年(慶長4年) 江州佐和山に移る。
・1600年(慶長5年) 大徳寺三玄院に帰る。
・1601年(慶長6年) 堺に移り、詩文を文西に学ぶ。 
・1602年(慶長7年) 和歌を細川幽斎に学ぶ。 
・1603年(慶長8年) 一凍紹滴に参じる。
・1604年(慶長9年8月4日) 一凍紹滴が印可し、初めて沢庵と号する。
・1606年(慶長11年) 一凍紹滴が示寂し、父秋庭能登守も亡くなる。 
・1607年(慶長12年) 母(枚田氏)が亡くなる。大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに堺南宗寺にも住持する。 
・1608年(慶長13年) 一絲が生まれる。
・1609年(慶長14年) 大徳寺の第154世住持に出世するも、3日で大徳寺を去り、堺へ戻る。 
・1611年(慶長16年) 円鑑国師が示寂し、大仙院に住する。
・1612年(慶長17年) 南宗寺にいて詠歌音義を作る。
・1613年(慶長18年) 『大灯国師年譜』を編する。
・1614年(慶長19年) 八瀬の橋をかける。 
・1615年(元和元年) 南宗寺が兵火にかかる。大徳寺法度が配布される。
・1616年(元和2年) 宗鏡寺が再興される。
・1617年(元和3年) 南宗寺の再興に着手する。
・1619年(元和5年) 南宗寺の再興が成る。
・1620年(元和6年) 郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、投淵軒と命名して隠棲生活に入る。
・1621年(元和7年) 『理気差別論』を著する。子の一絲が相国寺に入る。
・1622年(元和8年) 烏丸光広が出石に来る。 
・1624年(寛永元年) 高松宮が出石に来られる。 
・1626年(寛永3年) 「禁中並公家諸法度」の励行を達し、大徳寺の出世を禁ずる。 子の一絲が沢庵に参ずる。
・1627年(寛永4年) 正隠を出世させる。紫衣事件に反発して京に上り、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行う。
・1628年(寛永5年) 祥雲寺を開く。紫衣事件に関連して幕府は大徳寺を責め、弁明書を書く。 
・1629年(寛永6年) 幕府により江戸へ召喚される。
・1629年(寛永6年7月) 幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵は出羽国上山に流される。『東国紀行』、『碧巌九十偈』を作る。 
・1630年(寛永7年) 槍術の奥儀書を作る。
・1632年(寛永9年) 大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、江戸に帰り駒込に住む。 
・1633年(寛永10年) 『鎌倉遊覧記』を作る。 家光が柳生を通して質問する。
・1634年(寛永11年) 『木曽路紀行』を書き上洛し、二条城で家光に会い、次いで院参し但馬に帰る。
・1635年(寛永12年) 出石から江戸に帰る。
・1636年(寛永13年) 家光がしきりに召し、上洛し『東海道の記』を作る。但馬に帰る。
・1637年(寛永14年) 江戸に下り途中で病む。日光に社参する。
・1638年(寛永15年) 東海寺が建立されることにる。上洛し上皇に原人論を御進講申し上げ、国師号は辞退する。柳生に芳徳寺を開く。 
・1639年(寛永16年) 東海寺が落成し、新寺に移る。
・1640年(寛永17年) 日光に社参し、熱海に浴する。 
・1641年(寛永18年) 長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡される。
・1642年(寛永19年) 病にかかる。
・1643年(寛永20年) 『祠堂記』、『万年石の記』を作る。子の一絲が永源寺に住する。
・1644年(正保元年) 上京し参院して但馬に帰る。
・1645年(正保元年) 円相に賛を作る。
・1645年(正保元年11月29日) 発病する。
・1646年(正保元年12月11日) 江戸において、「夢」の一字を残し、数え年73歳で亡くなる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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