今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、「愛国イロハカルタ」が発行された日です。
「愛国イロハカルタ」は、太平洋戦争が激化していた中で、小学生に愛国心を養わせるため 、社団法人日本少国民文化協会が、情報局・大政翼賛会・文部省の後援を受けて標句 を公募・選定し、社団法人日本玩具統制協会が、1943年(昭和18)12月10日に発行した、小学生向けのカルタでした。(12月25日発行で別の絵柄のものもあります)これは、「いろは」47句の読み札と絵札で構成されており、子どもたちに国の政策と遂行中の戦争に賛同する意見を持たせることを目的に作られたものです。
このカルタの句は、一般から募集されましたが、その募集内容は、「次代の日本を担い、大東亜の指導者となるべき少国民の気宇を雄大に、情操を清純にし、その日常生活を指導して忠君愛国の念を涵養するもので永く愛誦するに足るもの」とされ、その程度は、「国民学校低学年の児童にも充分理解しうる、平易にして明朗なもの」となっていました。そして、国民学校(当時の小学校)の児童を含め、約26万通の応募があり、その中から選定されています。
この他に、「決戦イロハカルタ」、「戦陣訓イロハカルタ」なども作られました。
〇「愛国イロハカルタ」の読み札一覧と解説
【イ】イセノカミカゼ テキコクカウフク(伊勢の神風 敵国降服)
<解説>
鎌倉時代の元寇のとき、亀山上皇は伊勢神宮や春日神社、日吉 神社などに参拝し、「敵国降伏」の祈願を行い、神風が吹いて(台風襲来)、蒙古軍が退散したとされていました。そこで、太平洋戦争でも神風を吹かそうと言われていたのです。
【ロ】ロバタデキク センゾノハナシ(炉端で聞く 先祖の話)
<解説>
当時は、テレビもなかったので、夜は囲炉裏端で父や母、祖父や祖母からいろいろな話を聞きました。
【ハ】「ハイ」デハジマル ゴホウコウ(「はい」で始まる 御奉公)
<解説>
御奉公は、この文脈では、国のために尽くすことを指していますが、この絵では、隣組に回覧板を持って行くお手伝いが描かれています。
【ニ】ニッポンバレノ テンチャウセツ(日本晴れの 天長節)
<解説>
天長節は、天皇の誕生日(昭和天皇は4月29日)のことで、明治時代から太平洋戦争が終わるまで、四方拝、紀元節、明治節とともに四大節の一つとされ、家々で国旗を掲揚して祝いました。
【ホ】ホマレハタカシ キウグンシン(誉は高し 九軍神)
<解説>
1941年(昭和16)の真珠湾奇襲の際、5隻(2人搭乗)の特殊潜航艇で戦死した特別攻撃隊9人(1人は生きて捕虜となったので除かれている)が軍神とされました。
【ヘ】ヘイワナシマジマ ヒノミハタ(平和な島々 日の御旗)
<解説>
日本が軍事占領して、日の丸の旗が立った南方の島々を詠んだものです。
【ト】トウアヲムスブ アイウエオ(東亜を結ぶ あいうえお)
<解説>
日本が占領した地域で、日本語を教えたことを示していますが、占領地域では、日本語教育の徹底など「皇民化」政策がとられました。
【チ】チヒサイコトカラ オホキナハツメイ(小さなことから 大きな発明)
<解説>
物資不足の中で、創意工夫によるいろいろな発明が推奨されていました。
【リ】リクワシウミワシ ボクラモツヅク(陸鷲海鷲 僕等も続く)
<解説>
陸軍の飛行隊を「陸鷲」といい、海軍の飛行隊を「海鷲」と言っていましたので、陸軍・海軍に入隊して飛行機乗りになっていくという意味です。
【ヌ】ヌグフアセミヅ キンラウホウシ(拭う汗水 勤労奉仕)
<解説>
多くの人が徴兵されていて、労働力不足にあり、勤労奉仕に精を出して、それを埋めることが求められていました。
【ル】ルスヲマモッテ カチヌカウ(留守を守って 勝ち抜こう)
<解説>
多くの人が徴兵や徴用されたために、一家の男手が不足していて、その留守を守ることが求められていました。
【ヲ】ヲノノヒビキモ イサマシク(斧の響きも 勇ましく)
<解説>
食糧不足を解消するために、開墾、開拓が奨励されていて、満州国へ開拓移民として行った人もたくさんいました。
【ワ】ワラヂデキタヘタ オヂイサン(草鞋で鍛えた お爺さん)
<解説>
当時は、自動車もあまり普及していなかったので、近隣へ出かけるときは、徒歩が多く、草鞋を履いていく人も多くいました。
【カ】カガヤクムネノ シャウイキショウ(輝く胸の 傷痍徽章)
<解説>
傷痍徽章は、陸海軍人としての戦傷を負った者に授与される徽章のことで、お国のために戦地で戦い、死んだり、負傷することは名誉なこととされていました。
【ヨ】ヨセクルクロシホ ウミノコワレラ(寄せ来る黒潮 海の子我等)
<解説>
当時は、プールというものがあまりなく、子供は海で泳いで遊んだり、魚を取ったりしていました。
【タ】タダシイケイレイ タダシイココロ(正しい敬礼 正しい心)
<解説>
長幼の序と正しい啓礼が義務付けられていました。
【レ】レンセイデノビル セウコクミン(錬成で伸びる 少国民)
<解説>
国民学校の教育方法として、「国民錬成の道場」とすることとされ、心・体・技術などが鍛えられました。少国民は、銃後に位置する子供を指した語で、年少の皇国民という意味があります。
【ソ】ソラノアヲサハ カミヨカラ(空の青さは 神代から)
<解説>
当時は、都市よりも農村の人口の方が多く、自然環境の豊かなところで暮らしている人がたくさんいて、空が澄み切っていたところも多かったのです。
【ツ】ツギノニッポンボクラガニナフ(次の日本 僕等が担う)
<解説>
いつの時代でも次代は若者が担っていくのですが、当時は、特に強調され、軍人として、働き手として日本を若者が守っていくことが求められました。
【ネ】ネエサンガヌフラクカサン(姉さんが縫う 落下傘)
<解説>
落下傘はパラシュートのことで、当時は、学徒勤労動員や女子挺身隊として、女性が落下傘を作っていたところが多くありました。
【ナ】ナカヨシコドモノ トナリグミ(仲良し子供の 隣組)
<解説>
隣組は、1940年(昭和15)の内務省訓令第17号の「部落会町内会等整備要領」によって、町内会などの下に設けられた最末端の地域組織です。大政翼賛会の末端組織町内会の内部に形成され、戦争総動員体制を具体化したものの一つでした。配給業務や軍人遺家族援護、防空、消火の訓練と実施などの相互扶助的な日常活動が行われたのです。
【ラ】ラッパデシングン ヘイタイゴッコ(ラッパで進軍 兵隊ごっこ)
<解説>
当時の子供たちは、「兵隊ごっこ」をしてよく遊びましたが、敵味方に分かれての戦いを真似て行われていました。
【ム】ムラモゾウサンマチモゾウサン(村も増産 町も増産)
<解説>
戦地への徴兵や徴用によって、多くの人が農村や都市から行かされていましたので、生産力が低下していて、銃後を支えるため増産が求められていました。
【ウ】ウッテキタヘル ニッポントウ(打って鍛える 日本刀)
<解説>
日本刀を鍛錬することと、少年が心身を鍛錬することがかけられていると思われますが、前線では実際に日本刀を使って、敵陣に切り込むことも行われていました。
【ヰ】ヰモンブクロニテガミヲイレテ(慰問袋に 手紙を入れて)
<解説>
慰問袋は、出征軍人などの慰問のために手紙・日用品・娯楽品などを入れた袋のことで、これを作って送ることが推奨されていました。
【ノ】ノコエヤマコエ キャウカウグン(野越え山越え 強行軍)
<解説>
強行軍は、目的地に早く着くための、きびしい行軍(隊列を組んで長距離を歩いて移動すること)を言いますが、当時の国民学校の行事として行われていました。
【オ】オニヲモヒシグ モモタラウ(鬼をも拉ぐ 桃太郎)
<解説>
戦時下では、「鬼畜米英」と言われていて、アメリカ人やイギリス人は鬼とされていました。これを撃滅することを桃太郎の鬼退治にたとえたものと思われます。
【ク】クハノヒカリハ ミクニノヒカリ(鍬の光は 御国の光)
<解説>
鍬は農耕の基本で、これを使って田畑を耕すことで豊かな収穫を得ることができました。食糧難の当時は、どこでも農耕にいそしんで、食料生産をすることが求められていました。
【ヤ】ヤマノオクニモコヒノボリ(山の奥にも 鯉のぼり)
<解説>
鯉のぼりは端午の節句(5月5日)に、子供の成長を願って立てられるものですが、当時は山奥にも多くの子供が暮らしていました。近年では、山間地は過疎化と高齢化によって、子供の数はめっきり少なくなっています。
【マ】マツノイロマス オホウチヤマ(松の色増す 大内山)
<解説>
松は長寿の象徴とされ、大内山は皇居を指す言葉なので、皇室がますます栄えていくことを示しているものです。
【ケ】ケサモハヤオキレイスヰマサツ(今朝も早起き 冷水摩擦)
<解説>
冷水摩擦は、冷たい水に浸して絞ったタオルなどで皮膚をこすることにより、抵抗力をつけることを目的とする健康法で、この当時は推奨されていました。
【フ】フジヲアフイデ コクミンタイサウ(富士を仰いで 国民体操)
<解説>
1928年(昭和3)に、逓信省簡易保険局が御大典記念事業の一つとして制定した「国民保健体操」をNHKのラジオ放送によって全国に普及指導したのが始まりで、全国で大人も子供もやるようになりました。
【コ】コトバハタダシク ハッキリト(言葉は正しく はっきりと)
<解説>
当時は、特に言葉を正しく、はっきりと話すことが強調され、言葉が小さくて聞き取れないと叱られたものでした。
【エ】エイレイシヅマル ヤスクニジンジャ(英霊鎮まる 靖国神社)
<解説>
陸海軍人として、お国のために戦地で戦い、死んだ人は英霊となって、靖国神社に祀られていました。
【テ】テツセキタンアルミ ヒカウキフネヒリョウ(鉄石炭アルミ 飛行機船肥料)
<解説>
軍備増強のために鉄・アルミなどの資源が必要とされ、「金属類回収令」が出されて、鍋・釜やお寺の鐘までも供出させられました。
【ア】アサヒニ カシハデ(朝日に柏手)
<解説>
特に農村では、朝日が昇り始めると農家の人達が一斉に 朝日に向かって柏手を打ち、深々と頭を下げて「今日一日無事でありますように」と祈ることが行われていました。
【サ】サクラトチッタ セウナンコウ(桜と散った 小楠公)
<解説>
小楠公は、楠木正成を大楠公と呼ぶのに対し、その子正行をいう敬称で、父の死後、河内守・摂津守となり、南朝軍として活躍し、河内四条畷で高師直・師泰の軍に敗れて自害しました。
【キ】キミガヨウタフ アサノガクカウ(君が代歌う 朝の学校)
<解説>
学校では、毎朝国旗を掲揚し、「君が代」を歌うことが日課とされていました。
【ユ】ユキモカヘリモ レツクンデ(行きも帰りも 列組んで)
<解説>
当時は、集団での登下校が推奨されていて、地域ごとに隊列を組んで行き来しました。
【メ】メガデタハガデタ ボクラノハタケ(芽が出た葉が出た 僕等の畑)
<解説>
食糧不足を補うために、校庭や道路わき、空き地なども菜園として耕し、種を撒き、育てていましたが、それも生徒の重要な日課となっていました。
【ミ】ミヅダバケツダ ヒタタキダ(水だバケツだ 火たたきだ)
<解説>
アメリカ軍の爆撃機による空襲を想定して、防火訓練が度々おこなわれ、バケツリレーで水を運んでかける練習や火たたき(大きなハタキ)で火をたたいて消す練習などをしました。
【シ】シュッセイカゾクヘ オテツダヒ(出征家族へ お手伝い)
<解説>
出征家族(兵隊を送り出している家庭)では、男手が不足し、いろいろと不便なこともありましたので、出来るだけ近隣の人々が手助けすることが推奨されていました。
【ヱ】ヱガホトヱガホデ アカルイショクバ(笑顔と笑顔で 明るい職場)
<解説>
「いつも笑顔で明るい職場」がスローガンとして掲げられ、銃後の増産体制を支えました。
【ヒ】ヒナダンニヒトエダ モモノハナ(ひな壇に一枝 桃の花)
<解説>
雛壇は桃の節句(3月3日)に、女の子の成長を願って飾られるもので、家庭ごとに色々と工夫して、行われていました。
【モ】モンペデハタラク オカアサン(モンペで働く お母さん)
<解説>
モンペは女性用の衣類(和服における袴の形状をした作業着)で、太平洋戦争中には、厚生省によって「モンペ普及運動」として奨励されていましたが、戦局悪化に伴い 空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
【セ】センセイニホメラレタ チョキンバコ(先生に褒められた 貯金箱)
<解説>
「ぜいたくは敵だ」、「欲しがりません勝までは」などの戦時標語が掲げられて、節約が奨励され、貯蓄することが推奨されていて、子供も貯金箱を作ってお金を貯めるようにしていました。
【ス】スグレタクニガラ セカイガアフグ(優れた国柄 世界が仰ぐ)
<解説>
「日本は優秀だ」、「大和民族は優れている」ということが強調され、大東亜共栄圏を広げていくんだといって、中国大陸や南方へ向かっていきました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1948年(昭和23) | 国連総会で「世界人権宣言」が採択される | 詳細 |
1997年(平成9) | 山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する | 詳細 |