今日は、奈良時代の721年(養老5)に、第43代の天皇とされる元明天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月29日となります。
元明天皇(げんめいてんのう)は、661年(斉明天皇7年)に、第38代とされる天智天皇の第4皇女(母は蘇我倉山田石川麻呂の娘)として生まれましたが、名は阿閇(あへ)と言いました。679年(天武天皇8年)頃に、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚し、翌年に氷高皇女(のちの元正天皇)を出産、同年に草壁皇子が皇太子となっています。
683年(天武天皇12)に珂瑠皇子(のちの文武天皇)を出産しましたが、689年(持統天皇3)に夫の草壁皇子は即位することなく早世しました。697年(文武天皇元)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となったものの、707年(慶雲4年6月15日)に息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で亡くなり、その皇子 (のちの聖武天皇) が幼少であったため、同年に第43代とされる天皇として即位することとなります。
その在位中は藤原不比等が政権を担当し、708年(慶雲5)に武蔵国秩父より銅が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させ、「平城京造営の詔」を出し、710年(和銅3)に藤原京から平城京に遷都しました。翌年に「蓄銭叙位令」を発して貨幣の流通を計り、712年(和銅5)には諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出しています。
また、同年に天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が完成して献上され、713年(和銅6)には『風土記』の編纂を詔勅するなどしました。715年(和銅8)には、老いを理由に譲位し、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って、太上天皇となって後見します。
しかし、721年(養老5年5月)に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、葬送の簡素化を命じて、同年12月7日に平城京において、数え年61歳で亡くなり、奈良市奈保山東陵に葬られました。
<元明天皇の代表的な歌>
・「これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山」(万葉集)
・「大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」(万葉集)
〇元明天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・661年(斉明天皇7年) 天智天皇の第4皇女(母は蘇我倉山田石川麻呂の娘)として生まれる
・675年(天武天皇4年) 十市皇女と共に伊勢神宮に参拝する
・679年(天武天皇8年)頃 1歳年下である甥の草壁皇子と結婚する
・680年(天武天皇9年) 氷高皇女を出産する
・680年(天武天皇10年2月25日) 草壁皇子が皇太子となる
・683年(天武天皇12年) 珂瑠皇子を出産する
・689年(持統天皇3年4月13日) 草壁皇子は即位することなく早世する
・697年(文武元年8月17日) 息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となる
・707年(慶雲4年6月15日) 息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御する
・707年(慶雲4年7月17日) 第43代とされる天皇として即位する
・708年(慶雲5年1月11日) 武蔵国秩父より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させる
・708年(和銅元年2月15日) 「平城京造営の詔」を出す
・710年(和銅3年3月10日) 藤原京から平城京に遷都する
・711年(和銅4年10月23日) 「蓄銭叙位令」を発して貨幣の流通を計る
・712年(和銅5年1月) 諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出す
・712年(和銅5年1月28日) 天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が完成して献上される
・713年(和銅6年5月2日) 『風土記』の編纂を詔勅する
・715年(和銅8年) 郷里制が実施される
・715年(和銅8年9月2日) 老いを理由に譲位し、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って、太上天皇となる
・721年(養老5年5月) 発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託す
・721年(養老5年12月7日) 奈良の平城京において、数え年61歳で亡くなる
・722年(養老6年11月13日) 元明金命として合祀される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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