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 今日は、平安時代中期の万寿4年に、公卿藤原道長が亡くなった日ですが、新暦では1028年1月3日となります。
 藤原道長(ふじわら の みちなが)は、966年(康保3年)に京都において、摂政・関白・太政大臣の父・藤原兼家の五男(母は左京大夫藤原中正の女)として生まれました。980年(天元3年)に従五位下に叙位され、982年(天元5)に昇殿を許され、翌年には侍従に任官します。
 986年(寛和2)に父・兼家が一条天皇の摂政となると、翌年に従四位から一気に従三位に昇位し、991年(正暦2)には、26歳の若さで権大納言に任じられました。995年(長徳元)に疫病が流行し、兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため、その地位を道隆の嫡子内大臣伊周 (これちか) と争いましたが、道長の姉で天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援により、この争いに勝って、同年内覧、右大臣、氏長者となって政権の首座に就きます。
 翌年に伊周の失脚により左大臣となり、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となりました。1016年(長和5)には外孫の後一条天皇の践祚とともに摂政となり、翌年にはこれを嫡子頼通に譲り、太政大臣となって、父子並んで政権を独占して権勢を振るい、藤原氏摂関政治の最盛期を築きます。
 その中で、1018年(寛仁2年)に娘・威子立后の夜の宴席では、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と歌いました。しかし、同年太政大臣を辞し、さらに1019年(寛仁3)に出家し、行観 (同年行覚と改める) と名乗り、法成寺を造営します。
 詩歌も良くし、詩は『本朝麗藻』に、歌は勅撰集に43首が入集していますが、1028年1月3日(万寿4年12月4日)に、京都において、病のため数え年63歳で、亡くなりました。

〇藤原道長関係略年表(日付は旧暦です)

・966年(康保3年) 京都において、父・摂政・関白・太政大臣の兼家の五男(母は左京大夫藤原中正の女)として生まれる
・980年(天元3年1月7日)  従五位下に叙位される
・982年(天元5年1月10日)  昇殿を許される
・983年(天元6年1月27日) 侍従に任官する
・984年(永観2年2月1日) 右兵衛権佐に転任する
・984年(永観2年4月14日) 禁色を許される
・984年(永観2年4月28日) 東宮(のちの花山天皇こと、師貞親王)昇殿を許される
・986年(寛和2年2月8日) 昇殿を許される
・986年(寛和2年6月23日) 一条天皇が践祚し、父の兼家が摂政となるとあらためて昇殿を許される
・986年(寛和2年7月23日) 従五位上に昇叙し、蔵人に補任される
・986年(寛和2年7月27日) 正五位下に昇叙する
・986年(寛和2年8月15日) 少納言を兼任する
・986年(寛和2年10月15日) 左近衛少将に転任する
・986年(寛和2年11月18日) 従四位下に昇叙し、禁色と昇殿をあらためて許される
・987年(寛和3年1月7日) 従四位上に昇叙する
・987年(寛和3年1月27日) 讃岐権守を兼任する
・987年(永延元年7月11日) 備前権守を兼任し、讃岐権守を去る
・987年(永延元年9月4日) 左京大夫を兼任する
・987年(永延元年9月20日) 従三位に昇叙する
・987年(永延元年9月26日) 左近衛少将を止むが、帯剣を許される
・988年(永延2年1月29日) 権中納言に転任する
・989年(永延3年3月4日) 右衛門督を兼任する
・990年(永祚2年1月7日) 正三位に昇叙する
・990年(永祚2年10月5日) 中宮(道隆の娘で一条天皇中宮・藤原定子)大夫を兼任する
・991年(正暦2年9月7日) 26歳の若さで権大納言に転任する
・992年(正暦3年4月27日) 従二位に昇叙する
・995年(長徳元年4月27日) 左近衛大将を兼任する
・995年(長徳元年5月) 内覧宣下される
・995年(長徳元年9月19日) 右大臣に転任し、藤原氏長者宣下される
・996年(長徳2年7月20日) 正二位に昇叙し、左大臣に転任する
・996年(長徳2年8月9日) 左近衛大将を辞任する
・1015年(長和4年10月27日) 准摂政宣下される
・1016年(長和5年1月29日) 摂政宣下される
・1017年(長和5年12月7日) 左大臣を辞任する
・1017年(長和6年3月16日) 摂政を辞し、子頼通(よりみち)に譲り、従一位に昇叙する
・1017年(寛仁元年12月4) 太政大臣を宣下される
・1018年(寛仁2年2月9日) 太政大臣を辞任する
・1019年(寛仁3年3月21日) 出家して法名を行観とする
・1025年(万寿2年8月) 娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇)を産んで亡くなる
・1026年(万寿3年9月) 娘の妍子が亡くなる
・1028年(万寿4年12月4日) 京都において、病のため数え年63歳で、亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1942年(昭和17)小説家中島敦の命日詳細
1961年(昭和36)歴史学者・思想史家津田左右吉の命日詳細