今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、小説家海音寺潮五郎の亡くなった日です。
海音寺潮五郎(かいおんじ ちょうごろう)は、1901年(明治34)11月5日に、鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)で、山師の家に生まれましたが、本名は末冨東作(すえとみ とうさく)と言いました。加治木中学(現在の鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1921年(大正10)に伊勢神宮皇學館(現在の皇學館大学)に入学しますが、翌年恋愛問題から退学します。
一時帰郷し、山川かづと結婚後、1923年(大正12)に上京し、國學院大學高等師範部国漢科に入学しました。1926年(大正15)に卒業、鹿児島県立指宿中学校に国漢教師として赴任します。
1928年(昭和3)に京都府立第二中学校に転任し、翌年に「サンデー毎日」の懸賞小説に『うたかた草子』を応募して当選、1932年(昭和7)に「サンデー毎日」創刊十周年記念長編小説募集に『風雲』が当選し、同誌に掲載されました。1934年(昭和9)に教職を持して鎌倉に移住し、専業作家となり、翌年には実録文学研究会に同人として参加し、同人雑誌「実録文学」を創刊します。
代々木上原に転居後、1936年(昭和11)には、『天正女合戦』と『武道伝来記』で第3回直木賞を受賞し、1939年(昭和14) には同人誌「文学建設」創刊しました。1941年(昭和16)に陸軍報道班員として徴用されてマライへ行き、翌年帰国後から健康を害して入院生活を送ります。
太平洋戦争後は、歴史小説、史伝物を中心に幅広く活躍し、『明治太平記』(1952年)、『蒙古来る』(1954年)、『平将門』(1954~57年)、史伝『武将列伝』(1959~60年)、『天と地と』(1960~62年)などを書きました。1968年(昭和43)に菊池寛賞、1972年(昭和47)に紫綬褒章、1973年(昭和48)に文化功労者、1977年(昭和52)に日本芸術院賞などの栄誉に輝きます。
歴史小説や史伝に新境地を開き、テレビドラマや映画ともなりましたが、1977年(昭和52)12月1日に、栃木県黒磯において、76歳で亡くなっています。
〇海音寺潮五郎の主要な著作
・『うたかた草紙』(1929年)第5回サンデー毎日大衆文芸入選
・『風雲』(1932年)サンデー毎日懸賞小説入選
・『天正女(てんしょうおんな)合戦』(1936年)第3回直木賞受賞
・『武道伝来記』(1936年)第3回直木賞受賞
・史伝『赤穂浪士伝』(1941年)
・『明治太平記』(1952年)
・『蒙古来る』(1954年)
・『平将門(まさかど)』(1954~57年)
・史伝『武将列伝』(1959~60年)
・連作小説『二本(ふたもと)の銀杏(ぎんなん)』(1959~61年)
・『天と地と』(1960~62年)
・『火の山』(1961~62年)
・史伝『悪人列伝』(1961~62年)
・『風に鳴る樹(き)』(1963~64年)
・『海と風と虹と』(1965~66年)
・『西郷と大久保』(1967年)
・史伝『西郷隆盛(たかもり)』(1976~78年)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1903年(明治36) | 小説家小林多喜二の誕生日 | 詳細 |
1934年(昭和9) | 東海道本線の丹那トンネル(熱海~函南)が開通する | 詳細 |