ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年11月

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 今日は、幕末の1858年(安政5)に、「憲政の神様」と言われた政治家尾崎行雄の生まれた日ですが、新暦では12月24日となります。
 尾崎行雄(おざき ゆきお)は、相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市緑区又野)で、漢方医の父・尾崎行正、母・貞子の子として生まれましたが、幼名は彦太郎と言いました。江戸の平田塾、高崎の英学校で学んだ後、1872年(明治5)に度会県山田(現在の三重県宇治山田)に居を移し、宮崎文庫英学校に入学します。
 1874年(明治7)に、弟と共に上京し、福沢諭吉の慶應義塾童児局に入学しましたが、翌々年に中退しました。1879年(明治12)に諭吉の推薦で「新潟新聞」の主筆となり、1881年(明治14)には、大隈重信の招きで統計院権少書記官に就任したものの2ヶ月あまりで、明治14年政変によって下野することになります。
 翌年に「報知新聞」の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加、1883年(明治16)には東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出されました。翌年に「報知新聞」特派員として中国に渡り、1887年(明治20)には、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進しましたが、「保安条例」により東京からの退去処分を受けます。
 1890年(明治23)に、第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選(以後25回連続当選)、1896年(明治29)には第2次松方内閣で外務省勅任参事官となりました。1898年(明治31)に憲政党総務となり、第1次大隈内閣の文部大臣として入閣したものの、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で、同年に辞職します。
 1900年(明治33)に伊藤博文の立憲政友会結成に創立委員として参加、最高幹部の一人となりましたが、1903年(明治36)に伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して立憲政友会を脱党、その年に、東京市長に就任し、1912年(明治45)まで務め、同年の憲政擁護運動では、国民党の犬養毅と運動を指導し、「憲政の神様」と言われました。1914年(大正3)に第二次大隈内閣の法相に就任、1916年(大正5)には憲政会の創立に参画、筆頭総務となったものの、1921年(大正10)の普選即行論で、憲政会を除名され、軍備縮小論を主張して遊説します。
 1928年(昭和3)に田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年(昭和6)には「治安維持法」の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にしました。1941年(昭和16)に大政翼賛運動を批判し、鳩山一郎らと同交会を結成、翌年の翼賛選挙では推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選したものの、志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され一審で有罪判決(懲役8ヶ月執行猶予2年)を受けましたが、1944年(昭和19)の大審院では無罪となります。
 太平洋戦争後は、平和運動家として世界連邦制の確立のため努力したものの、1953年(昭和28)の第26回衆議院議員総選挙で落選して政界から引退、衆議院から名誉議員の称号を贈られました。その翌年10月6日に、東京の慶應病院において、95歳で亡くなっています。

〇尾崎関係略年表(明治5年以前の日付はは旧暦です)

・1858年(安政5年11月20日) 相模国津久井郡又野村で、漢方医の父・尾崎行正、母・貞子の子として生まれる
・1868年(明治元) 番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学ぶ
・1871年(明治4) 高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ
・1872年(明治5) 度会県山田(現在の三重県宇治山田)に居を移し、宮崎文庫英学校に入学す
・1874年(明治7) 弟と共に上京し、慶應義塾童児局に入学する
・1875年(明治8) クリスマスに聖公会のカナダ人宣教師で英語教師のA・C・ショーよりキリスト教の洗礼を受ける
・1876年(明治9) 工学寮(のちの工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学する一年足らずで退学する
・1879年(明治12) 福澤諭吉の推薦で「新潟新聞」の主筆となる
・1881年(明治14) 大隈重信の招きで統計院権少書記官に就任するも2ヶ月あまりで、明治14年政変によって下野する
・1882年(明治15) 「報知新聞」の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加する
・1883年(明治16) 東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される
・1884年(明治17) 「報知新聞」特派員として中国に渡る
・1887年(明治20) 後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進する
・1887年(明治20) 「保安条例」により東京からの退去処分を受ける
・1890年(明治23) 第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選する
・1896年(明治29) 第2次松方内閣で外務省勅任参事官となる
・1898年(明治31) 憲政党総務となり、第1次大隈内閣の文部大臣として入閣する
・1898年(明治31) 藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で文部大臣を辞職する
・1900年(明治33) 伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加、最高幹部の一人となる
・1903年(明治36) 伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して立憲政友会を脱党する
・1903年(明治36) 東京市長に就任する
・1908年(明治41) 猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させる
・1909年(明治42) 立憲政友会に復党する
・1911年(明治44) 外債により私営電車を買収し、東京市電の経営を始める
・1912年(明治45) サクラの苗木3,000本をワシントン D.C.に贈呈する
・1912年(明治45) 東京市長を辞める
・1912年(大正元) 憲政擁護運動では、国民党の犬養毅と運動を指導し、立憲政友会を代表して質問を行う
・1914年(大正3) 第二次大隈内閣の法相に就任する
・1916年(大正5) 憲政会の創立に参画、筆頭総務となる
・1921年(大正10) 普選即行論で、憲政会を除名され、軍備縮小論を主張して遊説する
・1928年(昭和3) 田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出する
・1931年(昭和6) 「治安維持法」の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にする
・1941年(昭和16) 大政翼賛運動を批判し、鳩山一郎らと同交会を結成する
・1942年(昭和17) 翼賛選挙では推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選する
・1942年(昭和17) 志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され一審で有罪判決(懲役8ヶ月執行猶予2年)を受ける
・1944年(昭和19) 大審院では無罪となる
・1946年(昭和21) 勲一等旭日大綬章を返上する
・1946年(昭和21) 第22回総選挙では三重全県一区でトップ当選する
・1947年(昭和22) 中選挙区制となった第23回総選挙でも三重2区からトップ当選する
・1953年(昭和28) 第26回衆議院議員総選挙で落選し、政界から引退、衆議院から名誉議員の称号を贈られる
・1954年(昭和29)10月6日 直腸がんによる栄養障害と老衰のため東京の慶應病院において95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事

1942年(昭和17)日本文学報国会が企画・選定した「愛国百人一首」が情報局より発表される詳細
1959年(昭和34)国連総会において「児童の権利に関する宣言」が採択される(世界こどもの日)詳細


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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、「環境基本法」が施行された日です。
 環境基本法(かんきょうきほんほう)は、新しい時代の日本の環境政策の基本を定めた法律(1993年法律第91号)として制定されました。
 1992年(平成4)の地球サミット開催を受け、地球環境の保全を確保するとともに、国民の健康と文化的な生活の確保が重要な課題とされます。そこで、、1967年(昭和42)制定の「公害対策基本法」と1972年(昭和47)制定の「自然環境保全法」を根本的に改正・統合し、環境行政を総合的に進めるために、環境保全の基本理念とそれに基づく基本的施策の枠組を定めることとなりました。
 その中で、1992年(平成4)10月に、中央公害対策審議会と自然環境保全審議会が答申し、環境庁が法案を作成、国会で審議されて、1993年(平成5)11月19日に制定されます。基本理念として、現在および将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢(けいたく)を享受できるようにすること(3条)、環境への負荷の少ない持続的発展の可能な社会が構築されることを旨とすること(4条)、および国際的協調の下に地球環境保全を積極的に推進すること(5条)を掲げ、ついで、国の責務、地方公共団体の責務、事業者の責務および国民の責務を規定(6条から9条)したのちに、環境保全のための基本的施策として、①環境基本計画(15条)、②国の施策にあたっての環境配慮(19条)および環境影響評価制度(環境アセスメント)(20条)、③環境保全上の支障を防止するための経済的措置(22条)を定めるべきものとしました。
 これによって、公害対策と自然保護対策が一本化されると共に、地球温暖化やオゾン層の破壊、海洋の汚染、野生生物の種の減少など、地球規模の環境に影響を及ぼす事態にかかわる環境の保全についても定められることになります。
 以下に、「環境基本法」第一章総則の部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇「環境基本法」(1993年法律第91号)抜粋

   第一章 総則

 (目的)
第一条 この法律は、環境の保全について、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体、事業者及び国民の責務を明らかにするとともに、環境の保全に関する施策の基本となる事項を定めることにより、環境の保全に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする。

 (定義)
第二条 この法律において「環境への負荷」とは、人の活動により環境に加えられる影響であって、環境の保全上の支障の原因となるおそれのあるものをいう。
 2 この法律において「地球環境保全」とは、人の活動による地球全体の温暖化又はオゾン層の破壊の進行、海洋の汚染、野生生物の種の減少その他の地球の全体又はその広範な部分の環境に影響を及ぼす事態に係る環境の保全であって、人類の福祉に貢献するとともに国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するものをいう。
 3 この法律において「公害」とは、環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態又は水底の底質が悪化することを含む。第十六条第一項を除き、以下同じ。)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く。以下同じ。)及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む。以下同じ。)に係る被害が生ずることをいう。

 (環境の恵沢の享受と継承等)
第三条 環境の保全は、環境を健全で恵み豊かなものとして維持することが人間の健康で文化的な生活に欠くことのできないものであること及び生態系が微妙な均衡を保つことによって成り立っており人類の存続の基盤である限りある環境が、人間の活動による環境への負荷によって損なわれるおそれが生じてきていることにかんがみ、現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に行われなければならない。

 (環境への負荷の少ない持続的発展が可能な社会の構築等)
第四条  環境の保全は、社会経済活動その他の活動による環境への負荷をできる限り低減することその他の環境の保全に関する行動がすべての者の公平な役割分担の下に自主的かつ積極的に行われるようになることによって、健全で恵み豊かな環境を維持しつつ、環境への負荷の少ない健全な経済の発展を図りながら持続的に発展することができる社会が構築されることを旨とし、及び科学的知見の充実の下に環境の保全上の支障が未然に防がれることを旨として、行われなければならない。

 (国際的協調による地球環境保全の積極的推進)
第五条 地球環境保全が人類共通の課題であるとともに国民の健康で文化的な生活を将来にわたって確保する上での課題であること及び我が国の経済社会が国際的な密接な相互依存関係の中で営まれていることにかんがみ、地球環境保全は我が国の能力を生かして、及び国際社会において我が国の占める地位に応じて、国際的協調の下に積極的に推進されなければならない。

 (国の責務)
第六条 国は、前三条に定める環境の保全についての基本理念(以下「基本理念」という。)にのっとり、環境の保全に関する基本的かつ総合的な施策を策定し、及び実施する責務を有する。

 (地方公共団体の責務)
第七条 地方公共団体は、基本理念にのっとり、環境の保全に関し、国の施策に準じた施策及びその他のその地方公共団体の区域の自然的社会的条件に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する。

 (事業者の責務)
第八条 事業者は、基本理念にのっとり、その事業活動を行うに当たっては、これに伴って生ずるばい煙、汚水、廃棄物等の処理その他の公害を防止し、又は自然環境を適正に保全するために必要な措置を講ずる責務を有する。
 2 事業者は、基本理念にのっとり、環境の保全上の支障を防止するため、物の製造、加工又は販売その他の事業活動を行うに当たって、その事業活動に係る製品その他の物が廃棄物となった場合にその適正な処理が 図られることとなるように必要な措置を講ずる責務を有する。
 3 前二項に定めるもののほか、事業者は、基本理念にのっとり、環境の保全上の支障を防止するため、物の製造、加工又は販売その他の事業活動を行うに当たって、その事業活動に係る製品その他の物が使用され又は廃棄されることによる環境への負荷の低減に資するように努めるとともに、その事業活動において、再生資源その他の環境への負荷の低減に資する原材料、役務等を利用するように努めなければならない。
 4 前三項に定めるもののほか、事業者は、基本理念にのっとり、その事業活動に関し、これに伴う環境への負荷の低減その他環境の保全に自ら努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する環境の保全に関する施策に協力する責務を有する。

 (国民の責務)
第九条 国民は、基本理念にのっとり、環境の保全上の支障を防止するため、その日常生活に伴う環境への負荷の低減に努めなければならない。
 2 前項に定めるもののほか、国民は、基本理念にのっとり、環境の保全に自ら努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する環境の保全に関する施策に協力する責務を有する。

 (環境の日)
第十条 事業者及び国民の間に広く環境の保全についての関心と理解を深めるとともに、積極的に環境の保全に関する活動を行う意欲を高めるため、環境の日を設ける。
 2 環境の日は、六月五日とする。
 3 国及び地方公共団体は、環境の日の趣旨にふさわしい事業を実施するように努めなければならない。

 (法制上の措置等)
第十一条 政府は、環境の保全に関する施策を実施するため必要な法制上又は財政上の措置その他の措置を講じなければならない。

 (年次報告等)
第十二条 政府は、毎年、国会に、環境の状況及び政府が環境の保全に関して講じた施策に関する報告を提出しなければならない。
 2 政府は、毎年、前項の報告に係る環境の状況を考慮して講じようとする施策を明らかにした文書を作成し、これを国会に提出しなければならない。

 (放射性物質による大気の汚染等の防止)
第十三条 放射性物質による大気の汚染、水質の汚濁及び土壌の汚染の防止のための措置については、原子力基本法(昭和三十年法律第百八十六号)その他の関係法律で定めるところによる。

 (以下略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1947年(昭和22)農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細


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tokudashyuusei01

 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、小説家徳田秋声の亡くなった日です。
 徳田秋声(とくだ しゅうせい)は、1872年2月1日(明治4年12月23日)に、石川県金沢市において、加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子(3男)として生まれましたが、本名は末雄(すえお)と言いました。幼時から病弱で小学校入学も1年遅れ、1886年(明治19)に石川県専門学校(第四高等中学)に入学しましたが、1891年(明治24)に父が死去したため、中退します。
 翌年、文学を志して友人の桐生悠々と共に上京し、尾崎紅葉の門を叩くものの、受け入れられず、失意のうちに帰郷しました。各地を転々とし、いろいろな職業に就いた後、1895年(明治28)に再度上京、博文館に勤務する一方で、泉鏡花のすすめにより紅葉門下に加わります。
 翌年の処女作『藪柑子 (やぶこうじ) 』によって文壇に認められ、その年、博文館を退社して作家活動に専念しました。1899年(明治32)に紅葉の推薦により読売新聞社に入社、翌年『雲のゆくへ 』を発表して小説家としての地位を確立、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅葉門下の四天王と称されるようになります。
 1903年(明治36)に紅葉の死後、自然主義へと移行、『新世帯 (あらじょたい) 』(1908年)、『黴 (かび) 』 (1911年)、『爛 (ただれ) 』(1913年)、『あらくれ』(1915年)などを発表、島崎藤村、田山花袋と並んでその代表作家となりました。1926年(大正15)の妻の急死後、若い作家志望の山田順子と親しくなり、その恋に取材した“順子もの”といわれる約20編の作品を再構成した『仮装人物』(1935~38年)で第1回菊池寛賞を受賞します。
 一方、1933年(昭和8)にナチスの焚書に対する抗議を契機に結成された反ナチス団体ともいえる「学芸自由同盟」に長谷川如是閑、秋田雨雀、三木清らと参加、1937年(昭和12)には芸術院会員ともなりました。しかし、1941年(昭和16)に代表作『縮図』を「都新聞」に連載開始したものの、戦時下での軍情報局の弾圧を受けて未完に終わり、1943年(昭和18)11月18日に、東京において、71歳で亡くなっています。

〇徳田秋声の代表的な作品

・『藪柑子 (やぶこうじ) 』(1896年)
・『雲のゆくへ 』(1900年)
・『新世帯 (あらじょたい) 』(1908年)
・『足迹』(1910年)
・『黴 (かび) 』 (1911年)
・『爛 (ただれ) 』(1913年)
・『あらくれ』(1915年)
・『元の枝へ』(1926年)
・『仮装人物』(1935~38年)第1回菊池寛賞受賞
・『光を追うて』(1938年)
・『縮図』(1941年~未完)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
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 今日は、平成時代の1990年(平成2)に、長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990-96年噴火)が始まった日です。
 雲仙普賢岳(うんぜんふげんだけ)は、長崎県島原半島にある活火山で、雲仙火山群およびその中央部を占める雲仙岳の主峰(標高1,359m)とされてきました。妙見岳(1,333m)、国見岳(1,347m)、九千部岳(標高1,062m)、絹笠山など多くの山体を総称して雲仙岳と呼ばれています。
 雲仙岳は、デイサイトと安山岩からなる複合火山で、約50万年前に活動を開始し、前期には火砕流やマグマ水蒸気爆発を中心とする噴火がおき、その後、溶岩流や溶岩円頂丘(溶岩ドーム)を中心とする噴火活動に移行しました。近世になって、江戸時代の1663年(寛文3)に噴火し、再び起きた1792年(寛政4)の噴火では、山崩れ・大津波により死者約1万5000名を数える、有史以来日本最大といわれる火山災害も起きています。
 その後小康状態を保っていたものの、198年ぶりで、1990年(平成2)11月17日から水蒸気爆発が始まり、翌年5月20日に溶岩の噴出が始まりました。溶岩は流動性の悪いデイサイト質で、火口付近に溶岩ドームを形成し、それが崩壊して火砕流が頻発するようになり、同年6月3日には火口から東側に4km流下し、報道関係者、外国人火山学者など43人の命を奪う惨事となり、数千世帯が避難を余儀なくされます。
 火砕流は普賢岳の北東側、北側にも発生し、1993年(平成5)6月にも死者1人を出しましたが、溶岩は1995年(平成7)2月半ばに噴出を停止、翌年6月3日に噴火終息宣言が出されました。この噴火により、山頂付近に溶岩円頂丘(標高1,488m)が形成され、島原市と小浜町が 1996年平成新山と名づけ、雲仙岳の新たな最高峰となります。
 雲仙岳は、「温泉(うんぜん)岳」とも書き、また「肥前風土記」には「高来峰(たかぎみね)」とも記されていました。温泉の存在は古くから知られていましたが、江戸時代に雲仙温泉古湯が開湯され、明治時代には、外国人向け保養地として新湯が開発されます。
 風光明媚で、春のツツジ(ミヤマキリシマ)、冬の霧氷などで知られ、1934年(昭和9)3月には、日本最初の国立公園の一つに指定されました。国見岳から九千部岳の山腹を経て田代原にいたる観光道路が建設され、妙見岳には仁田峠からロープウェーが架設され、キャンプ場、ゴルフ場なども出来、「温泉岳」として国の特別名勝にも指定されて、多くの観光客を迎え入れています。
 尚、2009年(平成21)には、普賢岳を含む島原半島全体が「島原半島ジオパーク」として世界ジオパークに認定されました。

〇「活火山」とは?
 活動的で近い将来噴火を起こす可能性のある火山のことですが、日本では、おおむね過去1万年以内に噴火した記録があるか、現在活発な噴気活動のある火山とされています。
 火山噴火予知連絡会によって、(1)過去1万年間の噴火の頻度、規模、爆発性などを定量化した1万年活動度指数、(2)過去100年間の観測データに基づく100年活動度指数。の2つの尺度が決められ、これによって、活火山はA・B・Cの3段階に分類されました。(ただし、海底火山と北方領土の火山は、データ不足のため評価の対象外)2017年(平成29)7月現在、Aランク(最も活動度が高い)の火山は13、Bランク(活動度は中程度)は36、Cランク(活動度は最も低い)の火山は38、対象外の火山は23で、合計110となっています。

☆日本の活火山一覧(火山噴火予知連絡会、活動度による分類)

<北海道>
・十勝岳(北海道)ランクA
・樽前山(北海道)ランクA
・有珠山(北海道)ランクA
・北海道駒ケ岳(北海道)ランクA
・浅間山(長野県・群馬県)ランクA
・知床硫黄山(北海道)ランクB
・羅臼岳(北海道)ランクB
・摩周(北海道)ランクB
・雌阿寒岳(北海道)ランクB
・恵山(北海道)ランクB
・渡島大島(北海道)ランクB
・アトサヌプリ(北海道)ランクC
・丸山(北海道)ランクC
・大雪山(北海道)ランクC
・利尻山(北海道)ランクC
・恵庭岳(北海道)ランクC
・倶多楽(北海道)ランクC
・羊蹄山(北海道)ランクC
・ニセコ(北海道)ランクC

<東北>
・岩木山(青森県)ランクB
・十和田(青森県・秋田県)ランクB
・恐山(青森県)ランクC
・八甲田山(青森県)ランクC
・秋田焼山(秋田県)ランクB
・岩手山(岩手県)ランクB
・八幡平(岩手県・秋田県)ランクC
・秋田駒ヶ岳(秋田県)ランクB
・鳥海山(秋田県・山形県)ランクB
・栗駒山(宮城県)ランクB
・蔵王山(宮城県・山形県)ランクB
・鳴子(宮城県)ランクC
・肘折(山形県)ランクC
・吾妻山(福島県)ランクB
・安達太良山(福島県)ランクB
・磐梯山(福島県)ランクB
・沼沢(福島県)ランクC
・燧ヶ岳(福島県)ランクC

<関東>
・那須岳(栃木県)ランクB
・高原山(栃木県)ランクC
・男体山(栃木県)ランクC
・日光白根山(栃木県・群馬県)ランクC
・榛名山(群馬県)ランクB
・草津白根山(群馬県)ランクB
・赤城山(群馬県)ランクC
・伊豆大島(東京都)ランクA
・三宅島(東京都)ランクA
・伊豆鳥島(東京都)ランクA
・神津島(東京都)ランクB
・西之島(東京都)ランクB
・硫黄島(東京都)ランクB
・新島(東京都)ランクB
・利島(東京都)ランクC
・御蔵島(東京都)ランクC
・八丈島(東京都)ランクC
・青ヶ島(東京都)ランクC
・箱根山(神奈川県)ランクB

<中部>
・新潟焼山(新潟県)ランクB
・妙高山(新潟県)ランクC
・横岳(長野県)ランクC
・焼岳(長野県・岐阜県)ランクB
・御嶽山(長野県・岐阜県)ランクB
・乗鞍岳(長野県・岐阜県)ランクC
・アカンダナ山(岐阜県)ランクC
・白山(福井県・岐阜県)ランクC
・弥陀ヶ原(富山県)ランクC
・富士山(静岡県・山梨県)ランクB
・伊豆東部火山群(静岡県)ランクB

<中国>
・三瓶山(島根県)ランクC
・阿武火山群(山口県)ランクC

<九州>
・雲仙岳(長崎県)ランクA
・福江火山群(長崎県)ランクC
・阿蘇山(熊本県)ランクA
・九重山(大分県)ランクB
・鶴見岳・伽藍岳(大分県)ランクB
・由布岳(大分県)ランクC
・霧島山(鹿児島県・宮崎県)ランクB
・桜島(鹿児島県)ランクA
・薩摩硫黄島(鹿児島県)ランクA
・諏訪之瀬島(鹿児島県)ランクA
・米丸・住吉池(鹿児島県)ランクC
・池田・山川(鹿児島県)ランクC
・開聞岳(鹿児島県)ランクC
・中之島(鹿児島県)ランクB
・硫黄鳥島(鹿児島県)ランクB
・口之島(鹿児島県)ランクC
・口永良部島(鹿児島県)ランクB

A:100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山
B:100年活動度または1万年活動度が高い活火山
C:100年活動度および1万年活動度がともに低い活火山
注:上記以外にデータ不足で対象外となっている北方領土や海底の火山があります

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細


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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰が亡くなった日です。
 瀧川幸辰(たきがわ ゆきとき)は、1891年(明治24)2月24日に、岡山県岡山市で生まれました。神戸第一中学校、北野中学校を経て、1909年(明治42)に旧制第三高等学校に入学します。
 卒業後、1912年(大正元)21歳の時に、京都帝国大学法科大学独法科に入学し、ドイツ刑法を学び、1915年(大正4)に司法官試補に任官して修習を積んで、京都帝国大学を卒業しました。母校の助手となりましたが、1917年(大正6)に判事に任官し、京都地方裁判所・同区裁判所に勤務します。
 翌年、母校の助教授に就任し、刑法総論・各論などを担当しました。1922年(大正11)海外留学し、主としてドイツに滞在して学び、1924年(大正13)に帰国後、母校の教授に就任します。
 1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する「滝川事件」が起きました。法学部教授会がこれに反対、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。
 退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍しました。太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となります。
 1951年(昭和26)に法学博士となり、1953年(昭和28)には京都大学総長に就任し、1957年(昭和32)まで勤めて退官しました。刑法に関する著書を刊行し、多くの随筆集も出しましたが、1962年(昭和37)11月16日に、京都において、71歳で亡くなっています。

〇瀧川幸辰の主要な著作

・『刑法読本』(1932年)
・『犯罪論序説』(1938年)
・『刑法講義』(弘文堂書房)
・『刑法講義 改訂版』(弘文堂書房)
・『刑法における構成要件の機能』(刑法雑誌1巻2号、1950年)
・『犯罪論序説 改訂版』(有斐閣)
・『刑法講話』(日本評論社)
・『刑法各論 増補』(世界思想社)
・『瀧川幸辰刑法著作集・全5巻』(世界思想社)
・『激流』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細
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