ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年11月

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 今日は、江戸時代後期の文政2年に、江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の生まれた日ですが、新暦では1820年1月10日となります。
 安藤信正(あんどう のぶまさ)は、江戸の磐城平藩江戸藩邸において、磐城平藩第4代藩主安藤信由の長男(母は大河内松平信明の娘)として生まれましたが、幼名は欽之進(後に欽之介)と言いました。1835年(天保6)には第11代将軍・徳川家斉に御目見し、従五位下・伊勢守に叙任されます。
 1843年(天保14)に長門守に遷任され、1847年(弘化4)には父が亡くなって家督相続し、陸奥国磐城平藩主(5万石)となり、江戸城の雁間詰となりました。その後、1848年(弘化5)に奏者番、1851年(嘉永4)に寺社奉行、1858年(安政5)には若年寄と出世していきます。
 1859年(安政6)の安政の大獄の翌年に老中となり、外国御用取扱を兼務しました。同年の桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周と共に内外の難局処理にあたることになります。
 公武合体策を進め、外に対してもロシア艦ポサドニック号対馬上陸事件、ヒュースケン事件など多くの難事を処理、皇妹和宮降嫁を図ったため尊攘派の激しい反対を受けました。その結果、1862年(文久2)の坂下門外の変で水戸浪士に襲撃され、負傷して老中を辞職、2万石減封のうえ永蟄居となります。
 1868年(慶応4)の戊辰戦争に際しては、奥羽越列藩同盟に参加して、官軍に抵抗、永蟄居処分を受けました。翌年には免ぜられましたが、1871年(明治4年10月8日)に、東京において、数え年52歳で亡くなりました。

〇坂下門外の変とは?

 幕末の1862年(文久2)1月15日に、公武合体論を推進し、孝明天皇の妹和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、水戸浪士を中心とする尊王攘夷派の志士6名によって、登城途中の江戸城坂下門外で襲われ負傷した事件でした。1860年(安政7)3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害された後、幕閣の中心に立った安藤は、尊王攘夷派の幕政批判を緩和するために、首席老中久世広周と共に公武合体策を推し進めます。
 特に安藤は、その一環として皇女和宮を第14代将軍徳川家茂に降嫁させる方策(和宮降嫁)を1860年(万延元)10月に実現し、翌年2月11日には婚儀が行われることとなっていました。これは、開国政策と共に尊王攘夷派の激しい怒りを買い、大橋訥庵らを中心とする宇都宮藩士、水戸藩士らは安藤を襲撃する計画を立てます。
 しかし、計画は事前に発覚し、訥庵は1月12日に捕らえられたものの、水戸浪士を中心とする6名が、1月15日午前8時頃に、江戸城登城途中の老中安藤信正行列を襲撃しました。以前の桜田門外の変のこともあり、行列の警護は厳重で、50名余りの供回りがいたため、思うようにいかず、安藤に軽傷を負わせましたが、襲撃者6名はその場で斬殺されます。
 その後安藤は、4月に老中を罷免、8月には隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減封されました。この事件は、江戸幕府の権威をさらに失墜させ、尊攘運動がいっそう盛んになっていきます。

☆安藤信正関係略年表(日付は旧暦です)

・1820年(文政2年11月24日) 江戸の磐城平藩江戸藩邸において、磐城平藩第4代藩主安藤信由の長男(母は大河内松平信明の娘)として生まれる
・1835年(天保6年3月15日) 第12代将軍・徳川家斉に御目見する
・1835年(天保6年12月16日) 従五位下・伊勢守に叙任される
・1843年(天保14年閏9月12日) 長門守に遷任される
・1847年(弘化4年5月5日) 家督相続し、陸奥国磐城平藩主(5万石)となる
・1847年(弘化4年8月1日) 江戸城の雁間詰となる
・1848年(弘化5年1月23日) 奏者番に補任される
・1851年(嘉永4年6月9日) 寺社奉行加役となる
・1851年(嘉永4年12月21日) 寺社奉行本役となる
・1856年(安政3年12月1日) 対馬守に遷任される
・1858年(安政5年8月1日) 若年寄となる
・1859年(安政6年7月21日) 勝手掛を兼務する
・1859年(安政6年8月28日) 常陸国水戸藩御用向取扱を兼務する
・1859年(安政6年9月) 安政の大獄が起こる(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名が死刑となる)
・1860年(安政7年1月15日) 老中に補任され、外国御用取扱を兼務する
・1860年(万延元年閏3月18日) 従四位下に昇叙される
・1860年(万延元年6月24日) 侍従を兼務する
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺される
・1860年(万延元年9月) 安政の大獄で処罰された徳川慶勝,一橋慶喜,松平慶永,山内豊信の謹慎を解く
・1860年(万延元年10月18日) 孝明天皇の妹である和宮の降嫁の勅許を得ることに成功する
・1860年(万延元年10月28日) 信行と名を改める
・1860年(万延元年12月21日) 勝手入用掛を兼務する
・1861年(文久元年3月21日) 外国御用取扱の功により1万石加増される
・1862年(文久2年1月15日) 坂下門外の変で負傷する
・1862年(文久2年2月11日) 孝明天皇の妹和宮が第14代将軍将軍家茂との婚儀が行われる(公武合体運動の推進)
・1862年(文久2年3月26日) 名を信正に改める
・1862年(文久2年4月11日) 老中を免職され、江戸城の溜間詰格となる
・1862年(文久2年8月16日) 隠居謹慎処分を受け、2万石を召上られ3万石となる
・1862年(文久2年11月20日) 永蟄居処分を受ける
・1868年(慶応4年/明治元年3月1日) 磐城平に帰国し、鶴翁を号する
・1868年(慶応4年/明治元年5月3日) 奥羽越列藩同盟(31藩参加)が成立し、奥羽公議所を現在の宮城県白石に置く
・1868年(慶応4年/明治元年7月13日) 戊辰戦争で官軍に攻められ、磐城平城が陥落する
・1868年(慶応4年/明治元年9月14日) 官軍に対し信正は降伏し、謹慎する
・1868年(慶応4年/明治元年12月7日) 永蟄居処分となる
・1869年(明治2年9月10日) 永蟄居が免ぜられる
・1871年(明治4年10月8日) 東京において数え年52歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1970年(昭和45)小説家三島由紀夫の命日(憂国忌)詳細
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 昭和時代前期の1945年(昭和20)にGHQが「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を指令した日です。
 太平洋戦争終結にあたり、日本が受諾した「ポツダム宣言」の軍国主義の除去、日本の民主化の条項において、経済分野では、経済の非軍事化を進めると共に、インフレーションの抑制のための経済統制の強化が求められました。その中で、GHQは1945(昭和20)年11月24日に、連合国最高司令官指令として、「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」(SCAPIN-337)を日本政府に発出し、戦時利得税の創設、戦時補償の封鎖等を指令します。
 これに基づき、「戦時補償特別措置法」(昭和21年法律第38号)による戦時補償の打ち切りと併せて「財産税法」(昭和21年11月11日法律52号)が制定され、1946年(昭和21)年3月3日午前0時において国内に在住する個人の財産の全額及び国外在住の個人が国内に所有する財産に対して1回限り税が徴収されました。これに先立ち、預金封鎖・新円切替と同時に執行された「臨時財産調査令」(昭和21年2月17日勅令85号)により3月3日時点の財産(金融資産)を強制的に申告させており、この調査結果に基づき課税額を決定しています。
 この調査の結果、所有していた動産・不動産の合計が、10万円以上の個人に課税されましたが、同一家族で該当者が複数ある場合は、合算されました。財産額よる税率は、10万円を超える金額―25%、11万円を超える金額―30%、12万円を超える金額―35%、13万円を超える金額―40%、15万円を超える金額―45%、17万円を超える金額―50%、20万円を超える金額―55%、30万円を超える金額―60%、50万円を超える金額―65%、100万円を超える金額―70%、150万円を超える金額―75%、300万円を超える金額―80%、500万円を超える金額―85%、1500万円を超える金額―90%というように累進課税とされます。
 多くの国民は、物資・賃金統制、配給制等によって、戦時下や戦後直後に窮乏生活を強いられていましたが、軍事物資生産や利権等によって、蓄財していた一部の人々は、財産を吐き出させられることとなりました。この税は、現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するかでしてが、多くのケースで財産が物納されたとされます。
 以下に、「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」(SCAPIN-337)の日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」(SCAPIN-337)1945年(昭和20)11月24日指令

一、一九四五年十一月十六日附戦争利得の除去並に財政再建に関する大蔵大臣覚書に関し意見次の如し。
二、該計画は日本に於ける平和的且民主的なる勢力の育成に寄与すべき方法及制度の発展を来す為の単なる一手段として原則的に之を承認す。一部の日本人の資産は不正にして且侵略的なる戦争を利用し多年に亘り不法に増大せり。政府は全日本人に対し戦争は経済的に見て利益あるものに非ざることを周知せしむる為貴方提案の第一項Aの税は不信なる真珠湾攻撃の日以後に付てのみならず可能なる限りに於て夫れ以前の期間に付ても適用せしむべし。
三、本計画に関する完全なる法案は一九四六年に開催せらるべき最初の議会に其の協讃を得る為提出せらるべし、右法案は本司令部の承認を求むる為一九四五年十二月三十一日以前に提出すべし。
皇室財産も本計画の適用を免るることなし。
四、必要なる立法措置を完了する迄は日本政府、其の下部機構、代理機関其の他の機関並に一切の者に依り軍需品の生産若は供給、戦争損害又は軍需工場の建設若は転換より生ずる一切の請求権に関し、左の条件を以てするの外支払を為すことを得ず。
(イ)該支払金は日本銀行に於ける封鎖勘定に受益者の名義に依り預金せらるること
(ロ)該勘定よりの支払、振替又は引出は本司令部の許可なくして行ふべからざること
五、日本政府其の下部機構、代理機関其の他の機関並に一切の者は左記のものを担保として信用を供与すべからず。
 a、軍需品の生産若は供給、戦争損害、軍需工場の建設若は転換に起因する請求権
 b、前項の請求権に基く支払に起因する封鎖勘定
六、軍需品の生産若は供給、戦争損害、軍需工場の建設若は転換に起因する請求権に関連し従来封鎖せられ居りたる勘定は本司令部の許可ある場合の外依然之が封鎖を続行すべし。第四項及第五項は斯る勘定に対しても適用せらるべし。
七、日本政府、其の下部機構、代理機関其の他の機関並に一切の者に依る一九四五年八月十五日以降に於ける本文書第四項記述の目的の為にする支払にして一請求権者に対する支払金額五千円を超ゆるものに付ては未だ封鎖が行はれ居らざる場合又は封鎖勘定より其の全部又は一部が解除せられ居る場合は本日後三十日内に受益者をして日本銀行封鎖勘定に再預金せしむべし。若し上述の資金が固定資産に投下せられ居る為又は其の他の理由に依り受益者に不当の困難を与ふることなしに回収し得ざる場合には事情の詳細を記述したる報告を大蔵省に提出せしめ本司令部の考究に資すべし。
八、日本政府、下部機構、代理機関其の他の機関は本司令部の許可なくして左の措置を行ふべからず。
(イ)公債又は其の他の債務証書を発行すること
(ロ)形式の如何を問はず信用を獲得し又信用を供与すること
(ハ)銀行、保険会社、信託会社、証券会社、投資会社、工業又は商業に関する商社其の他の公私の事業に対し今後債務の保証又は支払の約束を為すこと
(ニ)補助金の交付、免税、税の分与、払戻又は類似の便宜を与ふること
但し本指令に依り禁ぜられ居らざる目的の為に政府歳入を政府下部機関に再割当する場合は之を除く
(ホ)不動産又は他の固定資産、設備及他の公共事業又は企業の利益の売却其の他の処分
九、本指令に依り必要とせらるる承認に対する申請には大蔵省の書面に依る副申を附することを要す。
十、覚書の受領の確認を要求す。

 大蔵省財政史室編『昭和財政史-終戦から講和まで-』第17巻(東洋経済新報社)より

☆主要な連合国最高司令官指令(SCAPIN)一覧

<1945年(昭和20年)>
・9月2日 SCAPIN-1 陸海軍解体・軍需工業停止などを指令
・9月10日 SCAPIN-16 「言論及び新聞の自由に関する覚書」
・9月10日 SCAPIN-17 13日24時までの大本営廃止を発令
・9月21日 SCAPIN-33 「日本に与うる新聞遵則」(プレスコード)
・9月22日 SCAPIN-43 「日本に与うる放送遵則」(ラジオコード)
・10月4日 SCAPIN-93 「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」
・10月16日 SCAPIN-146 「映画企業に対するの日本政府の統制の撤廃に関する覚書」
・10月22日 SCAPIN-178 「日本教育制度ニ対スル管理政策」
・10月30日 SCAPIN-212 「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」
・11月6日 SCAPIN-244 「持株会社解体に関する司令部覚書」
・11月24日 SCAPIN-337 「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」
・12月9日 SCAPIN-411 「農地改革ニ関スル覚書」
・12月15日 SCAPIN-448 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)
・12月31日 SCAPIN-519 学校教育における「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」

<1946年(昭和21年)>
・1月4日 SCAPIN-548  超国家主義団体の解体の指令
・1月4日 SCAPIN-550 公職追放の指令
・1月21日 SCAPIN-635 政府借入及び政府支出の削減
・1月21日 SCAPIN-642 公娼廃止の指令
・1月28日 SCAPIN-658 「映画検閲に関する覚書」
・1月29日 SCAPIN-677 日本の行政権の行使に関する範囲の指令
・2月27日 SCAPIN-775 「社会救済に関する覚書」
・6月22日 SCAPIN-1033 「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」
・7月23日 SCAPIN-1080 1946年度予算の概算
・10月12日 SCAPIN-1266 日本史学科再開はSCAP認可の教科書使用を条件とする旨の指令
・10月25日 SCAPIN-1294 石油関係法令廃止と配給会社解散を指令

<1948年(昭和23年)>
・2月4日 SCAPIN-1855 「農地改革ニ関スル覚書」

<1949年(昭和24年)>
・4月1日 SCAPIN-1988 ガリオア及びエロア輸入による見返り円
・5月4日 SCAPIN-2001 日本政府の国税行政の改組

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代中期の1703年(元禄16)に、房総半島沖を震源とする元禄地震がおきた日ですが、新暦では12月31日となります。
 元禄地震(げんろくじしん)は、江戸時代中期の1703年(元禄16年11月23日)午前2時頃に起きた、相模トラフの房総半島南方沖を震源とする巨大地震(マグニチュード7.9~8.2と推定)でした。相模湾に沿う小田原から鎌倉、江戸、房総半島南部で震度が大きく(最大震度7と推定)、津波も発生して、房総半島から伊豆半島にいたる沿岸に大きな津波(最大波高10m)が押し寄せ、被害は関東地方から中部地方東部にまで及んでいます。
 その結果、2万余戸の家屋が倒壊・焼失・流失し、死者も1万人を超えたと言われ、農畜産物、道路・橋梁などへも甚大な被害が出ました。特に、地震による火災で小田原城の天守閣が焼失、江戸城でも門や櫓、土蔵などに被害が出、江戸の大名屋敷や寺社仏閣にも及んでいます。
 これによって、房総半島南部から三浦半島にかけて顕著な隆起がみられ、野島崎では 5m隆起しました。この地震は、相模トラフから関東地方下に沈み込むフィリピン海プレートが引き起こした海溝型地震で、規模は1923年(大正12)の関東地震(関東大震災)より大きかったと推定されています。

〇当時の文献による元禄地震の記載例

 ……とかくせしほどに、火も打ち消しぬ。日すでに午の半ばにもなりぬべきころ、また出でさせ給ひて、某を召す。参りしかば、「妻子どもの事、そののちの事、聞こえしにや」と仰せあり。「よべ参りし後は、ここにのみさぶらへば、それらの事も承らず」と申す。「我谷中の別業に行く時に、人の教へたりしを思ふに、居所は高き岸の下にありしとこそ覚ゆれ」と仰せらる。「さん候ふ」と申す。「いといとおぼつかなき事なり。かくては、地ふるふ事、数日も経め。ふるひし初めの事のごとくならざらむには、あひかまへて来るべからず。とくとく家に帰るべし」と仰せ下されしかば、まかり出でて、召供の者にたづねあひて、「よべのままにさぶらひしにや」と問ふに、「今朝とく家に残せし者どもの、来たり代はりぬれば、未の初めにはすぎぬ。明けの日、藩邸に参りしに、殿屋ことごとく傾きたれば、東の馬場に、仮家うたせ給ひておはします。

    『折たく柴の記』新井白石著より

〇江戸時代に起きた巨大地震(マグニチュード8以上)

・1611年(慶長15年10月28日) 慶長三陸地震[マグニチュード8.1]
・1703年(元禄16年11月23日) 元禄地震[マグニチュード7.9~8.2]
・1707年(宝永4年10月4日) 宝永地震[マグニチュード8.4~8.6]
・1854年(嘉永7年11月4日) 安政東海地震[マグニチュード8.4]
・1854年(嘉永7年11月5日) 安政南海地震[マグニチュード8.4]

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1707年(宝永4) 富士山宝永噴火が始まる(新暦12月16日)詳細
1896年(明治29)小説家樋口一葉の命日(一葉忌)詳細
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 今日は、江戸時代中期の享保9年に、浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の亡くなった日ですが、新暦では1725年1月6日となります。
 近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)は、江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。
 後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。
 1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書きます。
 1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きました。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなっています。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになりました。

〇近松門左衛門の主要な作品

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細


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 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、俳人石田波郷の亡くなった日です。
 石田波郷(いしだ はきょう)は、大正時代の1913年(大正2)3月18日に、愛媛県温泉郡垣生村(現在の松山市)で、自作兼小作農だった父・石田惣五郎、母・ユウの次男として生まれましたが、本名は哲大(てつお)と言いました。垣生尋常高等小学校を経て、1925年(大正14)に県立松山中学校(現在の松山東高校)に入学し、俳句を始めます。
 1930年(昭和5)に卒業後、自宅で農業を手伝いながら、五十崎古郷に師事、「波郷」の号を与えられました。水原秋桜子を知り、1932年(昭和7)に上京して、翌年には『馬酔木』の最年少の同人となります。
 1934年(昭和9)に明治大学に入学、翌年には第1句集『石田波郷句集』を刊行、清新な青春俳句として注目されました。1936年(昭和11)に大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念、翌年には、句誌「鶴」を創刊して主宰します。
 1939年(昭和14)に句集『鶴の眼』を刊行し、中村草田男、加藤楸邨と共に「人間探求派」と呼ばれました。1943年(昭和18)に句集『風切』を刊行しましたが、同年に召集を受け千葉佐倉連隊に入隊、華北に渡ったものの胸膜炎を病み、1945年(昭和20)に内地送還となります。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に「鶴」を復刊、また「現代俳句」を創刊したものの、1948年(昭和23)に病気再発し、以後病と闘って句作しました。1950年(昭和25)に闘病の記録ともいうべき句集『惜命』を刊行、1954年(昭和29)に『石田波郷全句集』で第6回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、1959年(昭和34)から朝日新聞俳句欄の選者、1961年(昭和36)には俳人協会を設立と活躍します。
 1968年(昭和43)に句集『酒中花』で第19回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞したものの、1969年(昭和44)11月21日に、東京の病院において、56歳で亡くなりました。尚、没後に妻あき子によって遺句集『酒中花以後』が編まれています。

<代表的な句>

・「秋の暮業火となりて秬は燃ゆ」
・「バスを待ち大路の春をうたがはず」(鶴の眼)
・「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」(鶴の眼)
・「初蝶や吾が三十の袖袂」(風切)
・「霜柱俳句は切字響きけり」(風切)
・「雁やのこるものみな美しき」(病鴈)
・「霜の墓抱起されしとき見たり」(惜命)
・「雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)」(惜命)
・「泉への道遅れゆく安けさよ」(春嵐)
・「今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)」(酒中花以後)

〇石田波郷の主要な著作

・句集『石田波郷句集』(1935年)
・句集『鶴の眼(め)』(1939年)
・句集『風切(かざきり)』(1943年)
・句集『病雁(びょうがん)』(1946年)
・句集『雨覆』(1948年)
・句集『惜命(しゃくみょう)』(1950年)
・随筆集『清瀬村』(1952年)
・句集『石田波郷全句集』(1954年)第6回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞
・句集『春嵐(はるあらし)』(1957年)
・句集『酒中花』(1968年)第19回芸術選奨文部大臣賞受賞
・句集『酒中花以後』(1970年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事

1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細


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