今日は、江戸時代後期の文政2年に、江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の生まれた日ですが、新暦では1820年1月10日となります。
安藤信正(あんどう のぶまさ)は、江戸の磐城平藩江戸藩邸において、磐城平藩第4代藩主安藤信由の長男(母は大河内松平信明の娘)として生まれましたが、幼名は欽之進(後に欽之介)と言いました。1835年(天保6)には第11代将軍・徳川家斉に御目見し、従五位下・伊勢守に叙任されます。
1843年(天保14)に長門守に遷任され、1847年(弘化4)には父が亡くなって家督相続し、陸奥国磐城平藩主(5万石)となり、江戸城の雁間詰となりました。その後、1848年(弘化5)に奏者番、1851年(嘉永4)に寺社奉行、1858年(安政5)には若年寄と出世していきます。
1859年(安政6)の安政の大獄の翌年に老中となり、外国御用取扱を兼務しました。同年の桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周と共に内外の難局処理にあたることになります。
公武合体策を進め、外に対してもロシア艦ポサドニック号対馬上陸事件、ヒュースケン事件など多くの難事を処理、皇妹和宮降嫁を図ったため尊攘派の激しい反対を受けました。その結果、1862年(文久2)の坂下門外の変で水戸浪士に襲撃され、負傷して老中を辞職、2万石減封のうえ永蟄居となります。
1868年(慶応4)の戊辰戦争に際しては、奥羽越列藩同盟に参加して、官軍に抵抗、永蟄居処分を受けました。翌年には免ぜられましたが、1871年(明治4年10月8日)に、東京において、数え年52歳で亡くなりました。
〇坂下門外の変とは?
幕末の1862年(文久2)1月15日に、公武合体論を推進し、孝明天皇の妹和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、水戸浪士を中心とする尊王攘夷派の志士6名によって、登城途中の江戸城坂下門外で襲われ負傷した事件でした。1860年(安政7)3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害された後、幕閣の中心に立った安藤は、尊王攘夷派の幕政批判を緩和するために、首席老中久世広周と共に公武合体策を推し進めます。
特に安藤は、その一環として皇女和宮を第14代将軍徳川家茂に降嫁させる方策(和宮降嫁)を1860年(万延元)10月に実現し、翌年2月11日には婚儀が行われることとなっていました。これは、開国政策と共に尊王攘夷派の激しい怒りを買い、大橋訥庵らを中心とする宇都宮藩士、水戸藩士らは安藤を襲撃する計画を立てます。
しかし、計画は事前に発覚し、訥庵は1月12日に捕らえられたものの、水戸浪士を中心とする6名が、1月15日午前8時頃に、江戸城登城途中の老中安藤信正行列を襲撃しました。以前の桜田門外の変のこともあり、行列の警護は厳重で、50名余りの供回りがいたため、思うようにいかず、安藤に軽傷を負わせましたが、襲撃者6名はその場で斬殺されます。
その後安藤は、4月に老中を罷免、8月には隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減封されました。この事件は、江戸幕府の権威をさらに失墜させ、尊攘運動がいっそう盛んになっていきます。
☆安藤信正関係略年表(日付は旧暦です)
・1820年(文政2年11月24日) 江戸の磐城平藩江戸藩邸において、磐城平藩第4代藩主安藤信由の長男(母は大河内松平信明の娘)として生まれる
・1835年(天保6年3月15日) 第12代将軍・徳川家斉に御目見する
・1835年(天保6年12月16日) 従五位下・伊勢守に叙任される
・1843年(天保14年閏9月12日) 長門守に遷任される
・1847年(弘化4年5月5日) 家督相続し、陸奥国磐城平藩主(5万石)となる
・1847年(弘化4年8月1日) 江戸城の雁間詰となる
・1848年(弘化5年1月23日) 奏者番に補任される
・1851年(嘉永4年6月9日) 寺社奉行加役となる
・1851年(嘉永4年12月21日) 寺社奉行本役となる
・1856年(安政3年12月1日) 対馬守に遷任される
・1858年(安政5年8月1日) 若年寄となる
・1859年(安政6年7月21日) 勝手掛を兼務する
・1859年(安政6年8月28日) 常陸国水戸藩御用向取扱を兼務する
・1859年(安政6年9月) 安政の大獄が起こる(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名が死刑となる)
・1860年(安政7年1月15日) 老中に補任され、外国御用取扱を兼務する
・1860年(万延元年閏3月18日) 従四位下に昇叙される
・1860年(万延元年6月24日) 侍従を兼務する
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺される
・1860年(万延元年9月) 安政の大獄で処罰された徳川慶勝,一橋慶喜,松平慶永,山内豊信の謹慎を解く
・1860年(万延元年10月18日) 孝明天皇の妹である和宮の降嫁の勅許を得ることに成功する
・1860年(万延元年10月28日) 信行と名を改める
・1860年(万延元年12月21日) 勝手入用掛を兼務する
・1861年(文久元年3月21日) 外国御用取扱の功により1万石加増される
・1862年(文久2年1月15日) 坂下門外の変で負傷する
・1862年(文久2年2月11日) 孝明天皇の妹和宮が第14代将軍将軍家茂との婚儀が行われる(公武合体運動の推進)
・1862年(文久2年3月26日) 名を信正に改める
・1862年(文久2年4月11日) 老中を免職され、江戸城の溜間詰格となる
・1862年(文久2年8月16日) 隠居謹慎処分を受け、2万石を召上られ3万石となる
・1862年(文久2年11月20日) 永蟄居処分を受ける
・1868年(慶応4年/明治元年3月1日) 磐城平に帰国し、鶴翁を号する
・1868年(慶応4年/明治元年5月3日) 奥羽越列藩同盟(31藩参加)が成立し、奥羽公議所を現在の宮城県白石に置く
・1868年(慶応4年/明治元年7月13日) 戊辰戦争で官軍に攻められ、磐城平城が陥落する
・1868年(慶応4年/明治元年9月14日) 官軍に対し信正は降伏し、謹慎する
・1868年(慶応4年/明治元年12月7日) 永蟄居処分となる
・1869年(明治2年9月10日) 永蟄居が免ぜられる
・1871年(明治4年10月8日) 東京において数え年52歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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