今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、社会運動家・政治学者大山郁夫の亡くなった日です。
大山郁夫(おおやま いくお)は、1880年(明治13)9月20日に兵庫県赤穂郡若狭野村(現在の相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれました。1897年(明治30)、17歳の時に神戸の大山晨一郎の養子となり大山姓となります。
1905年(明治38)に早稲田大学政治経済学科を首席で卒業し、翌年に早稲田大学講師となり、1910年(明治43)よりアメリカとドイツに4年ほど留学しました。帰国後、1915年(大正4)に早稲田大学教授(政治学)となりましたが、1917年(大正6)の早稲田騒動で大学を去り、朝日新聞大阪本社論説委員となります。
しかし、翌年の米騒動をめぐる朝日の筆禍事件(白虹事件)を機に辞職し、吉野作造、福田徳三らの黎明会に参加、1919年(大正8)には長谷川如是閑、井口孝親らと我等社をつくって、雑誌『我等』を創刊しました。1921年(大正10)に早稲田大学教授に復帰、民人同盟会、文化会など学生団体を指導、1923年(大正12)には階級闘争説による『政治の社会的基礎』を出版、政治学に新しい分野を開いて注目されます。
翌年に青野季吉、鈴木茂三郎、黒田寿男らと政治研究会を創立、1926年(大正15)に結成された無産政党・労働農民党に入党し、翌年には委員長に就任しました。「大山事件」で早稲田大学を辞任後、1928年(昭和3)の第16回衆議院議員総選挙に労働農民党から立候補しましたが、官憲の激しい選挙干渉で落選 その後結社禁止処分となります。
1929年(昭和4)には新労農党を結成し委員長に就任、翌年の総選挙で同党より立候補し東京第5区から当選しました。1932年(昭和7)に夫人を伴い横浜港からひっそりアメリカへ渡り、翌年にノースウェスタン大学政治学部研究嘱託となります。
太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本へ帰国、翌年に早稲田大学教授に復帰、1950年(昭和25)の参院選に日本社会党・日本共産党等構成の全京都民主戦線統一会議の支援を得て当選、平和を守る会会長ともなりました。1951年(昭和26)に早稲田大学教授を定年退職しましたが、世界平和評議会理事となり、平和運動に艇身し、スターリン国際平和賞を受賞したものの、1955年(昭和30)11月30日に、東京において、76歳で亡くなっています。
〇大山郁夫の主要な著作
・『政治の社会的基礎』(1923年)
・『現代日本の政治過程』(1925年)
☆大山郁夫関係略年表
・1880年(明治13)9月20日 兵庫県赤穂郡若狭野村(現在の相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれる
・1897年(明治30) 17歳の時に神戸の大山晨一郎の養子となり大山姓となる
・1901年(明治34) 東京専門学校に入学する(在学中に早稲田大学政治経済学部に改組される)
・1905年(明治38) 早稲田大学政治経済学科を首席で卒業する
・1906年(明治39) 早稲田大学講師となる
・1910年(明治43) アメリカのシカゴ大学へ留学する
・1912年(明治45) ドイツのミュンヘン大学へ留学する
・1914年(大正3) 帰国する
・1915年(大正4) 早稲田大学教授(政治学)となる
・1917年(大正6) 早稲田騒動で大学を去り、朝日新聞大阪本社論説委員となる
・1918年(大正7) 米騒動をめぐる朝日の筆禍事件(白虹事件)を機に辞職する
・1918年(大正7)12月23日 吉野作造、福田徳三らの黎明会に参加する
・1919年(大正8)2月 長谷川如是閑、井口孝親らと我等社をつくって、雑誌『我等』を創刊する
・1921年(大正10) 早稲田大学教授に復帰する
・1923年(大正12) 軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で大学の自由と自治擁護運動の中心となる
・1923年(大正12) 階級闘争説による『政治の社会的基礎』を出版、政治学に新しい分野を開いて注目される
・1924年(大正13)6月28日 嶋中雄三、青野季吉、鈴木茂三郎、黒田寿男、高橋亀吉らと政治研究会を創立する
・1924年(大正13) 学生研究会である社会科学研究会の会長に就任し、学生たちの指導にあたる
・1926年(大正15)3月 結成された無産政党・労働農民党に入党する
・1926年(大正15)12月 労働農民党の委員長に就任する
・1927年(昭和2) 「大山事件」で早稲田大学を辞任する
・1928年(昭和3)2月 第16回衆議院議員総選挙に労働農民党から立候補するが、官憲の激しい選挙干渉で落選する
・1928年(昭和3)4月 労働農民党が結社禁止処分となり解散させられる
・1929年(昭和4)11月 新労農党を結成し委員長に就任する
・1930年(昭和4) 総選挙で新労農党より立候補し東京第5区から当選する
・1932年(昭和7)3月 夫人を伴い横浜港からひっそりアメリカへ渡り、
・1933年(昭和8) ノースウェスタン大学政治学部研究嘱託となる、
・1947年(昭和22)10月 日本へ帰国する
・1948年(昭和23)4月 早稲田大学教授に復帰する
・1950年(昭和25)6月 参院選に日本社会党・日本共産党等構成の全京都民主戦線統一会議の支援を得て当選する
・1950年(昭和25) 平和を守る会会長となる
・1951年(昭和26)4月 早稲田大学教授を定年退職する
・1951年(昭和26) 世界平和評議会理事となる
・1951年(昭和26)12月 スターリン国際平和賞を受賞する
・1955年(昭和30)11月30日 硬膜下血腫のため76歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1204年(元久元) | 公家・歌人藤原俊成の命日(新暦12月22日) | 詳細 |
1945年(昭和20) | 「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着する | 詳細 |