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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、物理学者・随筆家・俳人寺田寅彦の生まれた日です。
 寺田 寅彦(てらだ とらひこ)は、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)において、高知県士族の父・寺田利正と母・亀の長男として誕生しました。1881年(明治14)に祖母、母、姉と共に郷里の高知県高知市に転居し、1893年(明治26)に高知県尋常中学校(現在の県立高知追手前高等学校)に入学します。
 1896年(明治29)に熊本の第五高等学校に進み、英語教師夏目漱石、物理学教師田丸卓郎から大きな影響を受けて科学と文学を志し、翌々年には漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社を蒲生紫川、厨川千江らと起こしました。1899年(明治32) に東京帝国大学理科大学に入学し、田中館愛橘、長岡半太郎の教えを受けます。
 1903年(明治36)に首席卒業後、大学院へ進学、翌年から同大学の講師となり、1908年(明治41年)には「尺八の音響学的研究」により、理学博士号を取得しました。翌年助教授へ進み、ドイツのベルリン大学に留学、1911年(明治44)にはフランス、イギリス、アメリカ経由で帰国します。
 1913年(大正2)にX線回折のラウエ斑点の研究方法の改良を「Nature」誌に発表して認められ、1916年(大正5)に教授(物理学)に就任し、翌年には帝国学士院恩賜賞を受賞しました。病気療養中の1920年(大正9)頃から本格的に写生文を書きはじめ、『病室の花』(1920年)、『冬彦集』(1923年)、『藪柑子集』(1923年)、『万華鏡 (カレイドスコープ) 』 (1929年)などの著書を刊行します。
 一方、1922年(大正11)から航空研究所、1924年(大正13)から理化学研究所、1926年(大正15)地震研究所の研究員を兼任、各分野に独創的な業績を残しました。1928年(昭和3)には、帝国学士院会員ともなりましたが、1935年(昭和10)12月31日に、東京市本郷区の自宅において、57歳で亡くなっています。尚、「天災は忘れたころにやってくる」の有名な警句を残したことで知られてきました。

〇寺田寅彦の主要な著作

・『海の物理学』(1913年)
・『地球物理学』(1915年)
・随筆書『病室の花』(1920年)
・随筆書『冬彦集』(1923年)
・随筆書『藪柑子集』(1923年)
・随筆書『万華鏡 (カレイドスコープ) 』(1929年)
・『触媒』(1934年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1872年(明治5)徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細