今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、俳人石田波郷の亡くなった日です。
石田波郷(いしだ はきょう)は、大正時代の1913年(大正2)3月18日に、愛媛県温泉郡垣生村(現在の松山市)で、自作兼小作農だった父・石田惣五郎、母・ユウの次男として生まれましたが、本名は哲大(てつお)と言いました。垣生尋常高等小学校を経て、1925年(大正14)に県立松山中学校(現在の松山東高校)に入学し、俳句を始めます。
1930年(昭和5)に卒業後、自宅で農業を手伝いながら、五十崎古郷に師事、「波郷」の号を与えられました。水原秋桜子を知り、1932年(昭和7)に上京して、翌年には『馬酔木』の最年少の同人となります。
1934年(昭和9)に明治大学に入学、翌年には第1句集『石田波郷句集』を刊行、清新な青春俳句として注目されました。1936年(昭和11)に大学を中退し、久保田万太郎を慕って句作に専念、翌年には、句誌「鶴」を創刊して主宰します。
1939年(昭和14)に句集『鶴の眼』を刊行し、中村草田男、加藤楸邨と共に「人間探求派」と呼ばれました。1943年(昭和18)に句集『風切』を刊行しましたが、同年に召集を受け千葉佐倉連隊に入隊、華北に渡ったものの胸膜炎を病み、1945年(昭和20)に内地送還となります。
太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に「鶴」を復刊、また「現代俳句」を創刊したものの、1948年(昭和23)に病気再発し、以後病と闘って句作しました。1950年(昭和25)に闘病の記録ともいうべき句集『惜命』を刊行、1954年(昭和29)に『石田波郷全句集』で第6回読売文学賞(詩歌・俳句賞)を受賞、1959年(昭和34)から朝日新聞俳句欄の選者、1961年(昭和36)には俳人協会を設立と活躍します。
1968年(昭和43)に句集『酒中花』で第19回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞したものの、1969年(昭和44)11月21日に、東京の病院において、56歳で亡くなりました。尚、没後に妻あき子によって遺句集『酒中花以後』が編まれています。
<代表的な句>
・「秋の暮業火となりて秬は燃ゆ」
・「バスを待ち大路の春をうたがはず」(鶴の眼)
・「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」(鶴の眼)
・「初蝶や吾が三十の袖袂」(風切)
・「霜柱俳句は切字響きけり」(風切)
・「雁やのこるものみな美しき」(病鴈)
・「霜の墓抱起されしとき見たり」(惜命)
・「雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)」(惜命)
・「泉への道遅れゆく安けさよ」(春嵐)
・「今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)」(酒中花以後)
〇石田波郷の主要な著作
・句集『石田波郷句集』(1935年)
・句集『鶴の眼(め)』(1939年)
・句集『風切(かざきり)』(1943年)
・句集『病雁(びょうがん)』(1946年)
・句集『雨覆』(1948年)
・句集『惜命(しゃくみょう)』(1950年)
・随筆集『清瀬村』(1952年)
・句集『石田波郷全句集』(1954年)第6回読売文学賞(詩歌・俳句賞)受賞
・句集『春嵐(はるあらし)』(1957年)
・句集『酒中花』(1968年)第19回芸術選奨文部大臣賞受賞
・句集『酒中花以後』(1970年)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事
1956年(昭和31) | 歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌) | 詳細 |
1978年(昭和53) | 第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される | 詳細 |