今日は、江戸時代前期の1653年(承応2)に、歌人・歌学者・俳人・貞門俳諧の祖松永貞徳の亡くなった日ですが、新暦では1654年1月3日となります。
松永貞徳(まつなが ていとく)は、安土桃山時代の1571年(元亀2)に、京都において、連歌師の父・松永永種、母・藤原惺窩の姉の子として生まれたとされますが、名は勝熊と言いました。和歌・歌学を九条稙通 (たねみち)、細川幽斎らから、連歌を里村紹巴から学び、林羅山や木下長嘯子などとも交わったと言われています。
20歳頃に、豊臣秀吉の右筆となったとされますが、1597年(慶長2)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜りました。1600年(慶長5)の関ケ原の戦い後は、豊かな学殖をもって古典を講義、1615年(元和元)には、京都に私塾を開き、和歌や俳諧を指導します。
俳諧の方式を定め、全国的に普及させた功績は大きく、貞門俳諧の祖ともされ、松江重頼、野々口立圃、安原貞室、山本西武 (さいむ)、鶏冠井 (かえでい) 令徳、高瀬梅盛、北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を育てました。また、歌人としては、木下長嘯子と共に地下歌壇の双璧をなし、狂歌作者としても一流とされています。
俳書として『新増犬筑波集』(1643年)、『俳諧御傘 (ごさん) 』などを著しましたが、1654年1月3日(承応2年11月15日)に、京都において、数え年83歳で亡くなりました。
<松永貞徳の代表的な句>
・「霞さへ まだらに立つや 寅の年」
・「花よりも 団子やありて 帰る雁」
・「鳳凰も 出でよのどけき とりの年」
〇松永貞徳の主要な著作
・狂歌書『貞徳百首狂歌』(1636年成立)
・俳書『新増犬筑波集』(1643年)
・俳書『俳諧御傘 (ごさん) 』(1655年)
・俳書『紅梅千句』(1655年)
・歌集『逍遊愚抄』(1677年)
・歌学書『九六古新注』(1670年)
・歌学書『堀川百首肝要抄』(1684年)
・『戴恩記』
・『歌林樸樕』
・『前車』
・『天水抄』
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1872年(明治5) | 「国立銀行条例」が制定される(新暦12月15日) | 詳細 |