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 今日は、明治時代前期の1888年(明治21)に、日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の亡くなった日です。
 狩野芳崖(かのう ほうがい)は、江戸時代後期の1828年(文政11年1月13日)に、長門国長府印内(現在の山口県下関市)で、長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として生まれましたが、幼名は幸太郎と言いました。初め父に画技を学んだものの、1846年(弘化3)に19歳で江戸に出て、木挽町狩野家に入門(橋本雅邦と同日)で勝川院雅信に学びます。
 1849年(嘉永2)頃、師の号より1字を受けて勝海と号し、翌年ごろ塾頭となり、雅邦と共に「勝川院の二神足」と呼ばれるようになりました。1852年(嘉永5)ごろには師の名から一字を得て雅道と号して独立し、長府藩の御用絵師となり、禄を得ます。
 1860年(万延元)に江戸城本丸再建に際し大広間天井画を揮毫しましたが、幕末は国事に奔走し、「馬関海峡測量図」などを描きました。明治維新後禄を失って困窮し、1877年(明治10)からは東京の精工社で輸出用陶器の下図を描いたりして、糊口をしのぎます。
 1879年(明治12)ごろ「犬追物図」制作のため島津家雇となり、1882年(明治15)にはアーネスト・フェノロサの知遇を得、翌々年にはフェノロサが組織した鑑画会に参加するようになりました。西洋顔料を用いるなど、西洋画の手法を取り入れ日本画を描くようになり、1885年(明治18)の第1回鑑画会大会で『伏竜羅漢図』が3等賞、翌年の第2回大会では『仁王捉鬼図』が1等賞を受賞し、同会の中心作家となります。
 また、同年図画取調掛雇、1888年(明治21)東京美術学校(のちの東京芸術大学)雇となり、美術学校の設立に尽力しました。しかし、同校開校の3ヶ月前の11月5日に、東京において、数え年61歳で急逝しています。
 尚、絶筆となった『悲母観音』は近代日本画の代表作として、のちに国指定重要文化財となりました。

〇狩野芳崖の主要な作品

・『山水図屏風』(1868年)
・『観音』(1883年頃)第2回パリ日本美術縦覧会出品
・『桜下勇駒図』(1884年)第2回内国絵画共進会出品
・『雪山暮渓』(1884年)第2回内国絵画共進会出品
・『伏竜羅漢図』(1885年)第1回鑑画会大会三等賞受賞
・『仁王捉鬼図』(1886年)第2回鑑画会大会一等賞受賞
・『不動明王図』(1887年) 国指定重要文化財
・『松下牧童之図』(1887年頃)
・『大鷲』(1888年)
・『悲母観音』(1888年) 国指定重要文化財

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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