ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年10月

enomototakeaki01

 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、幕臣・外交官・政治家榎本武揚の亡くなった日です。
 榎本武揚(えのもと たけあき)は、1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。
 1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。
 1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。
 箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。
 1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。
 1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。
 一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇榎本武揚関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年〈天保7年8月25日〉 江戸下谷(現在の東京都台東区)で、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれる
・1847年(弘化4年) 12歳で昌平坂学問所に入る
・1854年(安政元年) 箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従う
・1856年(安政3年) 長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学ぶ
・1858年(安政5年) 江戸の築地軍艦操練所教授となる
・1862年(文久2年) オランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学ぶ
・1866年(慶応2年) 幕府注文の開陽丸を回送して帰国、同艦の船将となる
・1868年(慶応4年1月) 海軍副総裁となる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否する
・1868年(慶応4年10月20日) 幕府艦隊を率いて北海道に上陸する
・1868年(慶応4年11月1日) 箱館五稜郭へ入城する
・1868年(慶応4年12月10日) 蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙によって総裁に選ばれる
・1869年(明治2年5月18日) 官軍に降伏する
・1869年(明治2年6月30日) 東京の監獄に投獄される
・1872年(明治5年1月6日) 特赦を受けて出獄する、
・1872年(明治5年6月) 黒田清隆の下で、開拓使に登用されて北海道の資源調査に従事する
・1874年(明治7年) 海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在する
・1875年(明治8年)5月7日 ロシアのペテルブルグで「樺太・千島交換条約」を締結する
・1879年(明治12年) 地学協会の創立を唱えて副会長となる
・1880年(明治13年)2月28日 海軍卿となる
・1882年(明治15年)8月12日 駐清特命全権公使となる
・1884年(明治17年) 李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力する
・1885年(明治18年) 伊庭想太郎らと旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立する
・1885年(明治18年)10月 清国から帰国する、
・1885年(明治18年)12月22日 逓信大臣に就任する
・1887年(明治20年)5月24日 子爵となる
・1888年(明治21年)4月30日 農商務大臣となる
・1888年(明治21年) 電気学会を設立、初代会長となる
・1889年(明治22年)2月11日 大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務める
・1889年(明治22年)3月22日 文部大臣となる
・1890年(明治23年)5月22日 枢密顧問官となる
・1891年(明治24年)3月6日 東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任する
・1891年(明治24年)5月29日 外務大臣となる
・1893年(明治26年) 殖民協会を設立し会長となる
・1893年(明治26年) 育英黌分黌農業科を私立東京農学校と改称し、校主となる
・1894年(明治27年)1月22日 農商務大臣となる
・1897年(明治30年)3月29日 足尾鉱毒事件で農商務大臣を引責辞任する
・1898年(明治31年) 工業化学会の初代会長となる
・1905年(明治38年)10月19日 海軍中将を退役となる
・1908年(明治41年)10月26日 東京において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

bunten01

 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、第1回文部省美術展覧会(通称:文展)が東京上野の元東京勧業博覧会内美術館で開催された日です。
 文部省美術展覧会(もんぶしょうびじゅつてんらんかい)は、文部省が主催した総合的な美術展覧会で、政府が主宰する美術展覧会(官展)としては最初のものでした。日本美術、洋風美術それぞれの新旧諸流派が対立し反目し合う美術界に共通の場を与え、抗争を収拾して美術の振興を図ることを目的として設けられたものです。
 政府が美術振興政策として、1907年(明治40)6月に勅令をもって「美術審査委員会官制」を発布し、その後「美術展覧会規程」を公布、文部省に美術審査委員会を設け、毎年一回展覧会を開催することとしました。そして、同年10月25日から、第1回展が東京の上野公園の元東京勧業博覧会内美術館で開催(入場料10銭)されます。
 日本画・洋画・彫塑の総合展とし、この3部門で公募され、審査の上で、優秀作品が決められて展示されましたが、11月末までの37日間の会期中に43,741人が来場しました。1918年(大正7)までに12回開催され、来場者も増加していったものの、審査員の選出、官僚的な運営など弊害が絶えず、翌年に新たに「帝国美術院規定」が制定され、帝国美術院展覧会(通称:帝展)に改組されます。1926年(昭和元)から「美術工芸」が加えられて4部門となり、1932年(昭和7)から創作版画も加えられました。
 1937年(昭和12)には帝国美術院の廃止にともない復活(通称:新文展)し、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には日本美術展覧会(通称:日展)と改称されて再出発します。しかし、1958年(昭和33)からは、民間団体である社団法人「日展」の運営となり、官展としては消滅しました。
 以下に、「美術審査委員会官制」(明治40年6月6日勅令第220号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

<第1回文部省美術展覧会(文展)の出品数と優秀作品>

・日本画部門は99点が出品され、一等賞はなく、二等賞に木島桜谷の「しぐれ」、野田九浦の「辻説法」、菱田春草の「賢首菩薩」と3人が選ばれ、24人が三等賞となる。
・洋画部門は91点が出品され、一等賞はなく、二等賞は和田三造の「南風」が選ばれ、10人が三等賞となる。
・彫刻部門は16点が出品され、一等賞・二等賞はなく、米原雲海と毛利教武の2人が三等賞となる。

☆文部省美術展覧会(文展)の入場者数推移

・[第1回]1907年(明治40) 37日間・43,741人入場(1日平均1,182人) 
・[第2回]1908年(明治41) 40日間・48,535人入場(1日平均1,213人) 
・[第3回]1909年(明治42) 41日間・60,535人入場(1日平均1,476人) 
・[第4回]1910年(明治43) 41日間・76,363人入場(1日平均1,862人) 
・[第5回]1911年(明治44) 37日間・92,765人入場(1日平均2,507人) 
・[第6回]1912年(大正元) 37日間・161,795人入場(1日平均4,372人) 
・[第7回]1913年(大正2) 35日間・168,708人入場(1日平均4,820人) 
・[第8回]1914年(大正3) 35日間・146,486人入場(1日平均4,185人) 
・[第9回]1915年(大正4) 32日間・183,418人入場(1日平均5,731人) 
・[第10回]1916年(大正5) 38日間・231,691人入場(1日平均6,097人) 
・[第11回]1917年(大正6) 36日間・242,662人入場(1日平均6,740人) 
・[第12回]1918年(大正7) 36日間・258,371人入場(1日平均7,176人) 

〇「美術審査委員会官制」(明治40年6月6日勅令第220号) 

第一条 美術審査委員会ハ文部大臣ノ監督ニ属シ美術展覧会ノ出品ヲ審査ス
 美術展覧会ニ関スル規程ハ文部大臣之ヲ定ム

第二条 美術審査委員会ハ委員長及委員ヲ以テ之ヲ組織ス
 委員長ハ文部次官ヲ以テ之ニ充ツ
 委員ハ文部大臣ノ奏請ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス

第三条 委員ノ任期ハ三年トス

第四条 委員長ハ会務ヲ統理シ審査ノ成績ヲ文部大臣ニ報告ス

第五条 委員ハ委員長ノ指揮ヲ承ケ審査ニ関スル事務ヲ掌ル

第六条 美術審査委員会ハ左ノ三部ニ分チ委員ハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ其ノ一ニ属ス但シ他ノ部員ヲ兼ヌルコトヲ得
 第一部 日本画
 第二部 西洋画
 第三部 彫刻

第七条 美術審査委員会ニ主事一人ヲ置キ文部部門ノ高等官ヲ以テ之ニ充ツ
 主事ハ委員長ノ指揮ヲ承ケ庶務ヲ整理ス

第八条 美術審査委員会ニ書記五人ヲ置キ文部部内ノ判任官ヲ以テ之ニ充ツ
 書記ハ上司ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ従事ス

第九条 委員長、委員、主事及書記ニハ事務ノ繁簡ニ従ヒ手当ヲ給スルコトヲ得

附則
 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

  「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
1909年(明治42)写真家土門拳の誕生日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

normantongoujiken01

 今日は、明治時代前期の1886年(明治19)に、ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人が溺死した「ノルマントン号事件」が起きた日です。
 ノルマントン号事件(ノルマントンごうじけん)は、横浜港を出港して神戸港に向かっていたイギリス商船「ノルマントン」号が暴風のため、和歌山県南部の潮岬付近で座礁・沈没した際、イギリス人乗組員は船長以下26人全員がボートで脱出しましたが、日本人乗客25人は全員取り残され、溺死した事件でした。
 10月28日に外務大臣井上馨は、松本鼎和歌山県知事からの電報で遭難事件のあらましを知り、実況調査を命令します。当時の不平等条約の下で、イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり(治外法権)、11月1日に神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、領事裁判権にもとづき神戸領事館内管船法衙において海難審判をおこない、その結果、同月5日に船長以下全員に無罪判決を下しました。
 これに対して、国民は悲憤慷慨し、日本政府も世論に押されて、11月14日に横浜英国領事裁判所に告訴します。その後審判が行われ、12月8日に横浜領事裁判所判事のニコラス・ハンネンはドレーク船長に有罪判決を下し、禁固刑3ヶ月に処しましたが、死者への賠償金は支払われませんでした。
 それでも、新聞報道等により義援金が集められ、遺族に分配されています。この事件は、領事裁判権廃止を含む不平等条約改正の国民運動にいっそうの刺激を与えることになりました。

〇ノルマントン号事件関係略年表

<1886年(明治19)>
・10月24日 和歌山県沖でノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人が溺死した「ノルマントン号事件」が起きる
・10月28日 外務大臣井上馨は松本鼎和歌山県知事からの電報で遭難事件のあらましを知り、実況調査を命令する
・11月1日 神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、領事裁判権にもとづき神戸領事館内管船法衙において海難審判をおこなう
・11月5日 ツループは、海難審判の結果、船長以下全員に無罪判決を下す
・11月13日 井上外相は内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴を命じる
・11月14日 横浜英国領事裁判所に告訴される
・12月8日 横浜領事裁判所判事のニコラス・ハンネンはドレークに有罪判決を下し、禁固刑3ヶ月に処したが、死者への賠償金は支払われなかった

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

chikuzenijyoirei01

 今日は、奈良時代の711年(和銅4)に、「蓄銭叙位令」が出された日ですが、新暦では12月7日となります。
 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)は、銭貨の流通を図り、政府への還流をもくろんで出された、売位制度の一種ともいえる法令で、「蓄銭叙位法」とも呼ばれてきました。708年(和銅元)に鋳造した貨幣の和同開珎 (かいちん) が、当時の米や布などの物品経済になかなか浸透しなかったため、銭を一定額蓄えた者に対し、その銭の政府への納入を条件として、位を昇進させることにしたものです。
 ちなみに、銭1000文を1貫と換算して、八位~従六位では10貫以上で1階、20貫以上で2階位を進め、初位では5貫ごとに1階進め、初位から従八位下に入るときには10貫とし、正六位以上で10貫以上蓄銭したものは臨時の勅によって処遇するとされました。最初は有位者のみを対象としましたが、同年12月20日に、無位・白丁から有位者となる際の銭の額を定める追加法が出されています。
 しかし、この法令が出来たことにより、かえって地方の有力者に銭貨が死蔵される結果となり、800年 (延暦19) に廃止されました。

〇「蓄銭叙位令」711年(和銅4年10月23日)発令 (12月20日)追加発令

<原文>

(和銅四年冬十月甲子の条)
 詔曰。夫銭之為用。所以通財貿易有無也。当今百姓。尚迷習俗、未解其理。僅雖売買。猶無蓄銭者。随其多少。節級授位。其従六位以下。蓄銭有一十貫以上者。進位一階叙。廿貫以上進二階叙。初位以下。毎有五貫進一階叙。大初位上若初位。進入従八位下。以一十貫為入限。其五位以上及正六位。有十貫以上者。臨時聴勅。(中略)夫申蓄銭状者。今年十二月内。録状并銭申送訖。

(和銅四年十二月の条)
 庚申。又制蓄銭叙位之法。無位七貫。白丁十貫。並為入限。以外如前。

 『続日本紀』より

<読み下し文>

(和銅四年冬十月甲子の条)
 詔して日く、「夫れ銭の用たる、財を通じ有無を貿易する[1]所以なり。当今百姓なほ習俗に迷ひて[2]、未だ其の理を解せず、僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して[3]位を授けん。其れ従六位以下[4]蓄銭一十貫[5]以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す。大初位もしくは初位から上、従八位下に進めて入るは、一十貫をもって入る限りとなす。其の五位以上及び正六位、十貫以上有らん者は、臨時に勅を聴け[6]」(中略)夫れ蓄銭の状を申むは、今年十二月の内に、状を并せて銭を録して申し送り訖れ。

(和銅四年十二月の条)
 庚申。又蓄銭叙位之法を制す。無位七貫。白丁[7]十貫。並に入る限りとなす。以外は前の如し。

【注釈】

[1]貿易する:ぼうえきする=品物を交換する。
[2]習俗に迷ひて:しゅうぞくにまよいて=古い習慣に従って。
[3]節級して:せっきゅうして=等級・段階を設けて。
[4]従六位以下:じゅろくいいか=従六位以下としたのは、五位以上は天皇の裁決による勅授とされていたために、区別している。
[5]一十貫:いちじゅっかん=銭千枚(1枚が1文)で一貫、十貫は和同開珎にして一万枚。
[6]勅を聴け:ちょくをきけ=天皇の裁決による。
[7]白丁:はくてい=官途につかず、口分田を班給されて税を納め課役を負担する者。無位無官の公民。

<現代語訳>

(和銅4年(711年)冬10月23日の条)
 詔して言うことには、「およそ銭というものは、財を普及し、必要な品物を交換するのにまことに有益なものである。ところが、現在では人々はなお古い習慣に従って、いまだにその理由を理解していない。わずかに銭を用いて売買するといっても、なおそれを蓄える者はいない。そこで銭を蓄えた額の多少に応じて、等級・段階を設けて位を授けることにした。従六位以下で、10貫以上の銭を蓄えた者には、位を一階昇進させよう。20貫以上の銭を蓄えた者には、位を二階昇進させよう。初位以下は、5貫ごとに一階昇進させよう。大初位・初位から上の従八位下に進めて入るには、10貫以上が必要なものとする。その五位以上及び正六位は、10貫以上の銭を蓄えた者は、臨時の天皇の裁決による。」(中略)それ蓄銭叙位令に基づいての申請は、今年12月の内に、申請状と銭を併せて記録して申し送りおわれ。

(和銅4年(711年)12月の条)
 20日。また蓄銭叙位令を(追加)制定する。無位は7貫以上、白丁は10貫以上の蓄えは、有位者となるに必要なものとする。それ以外は前と同じである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

heiankyou01

 今日は、794年(延暦13)に平安遷都され、桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京した日(平安遷都の日)ですが、新暦では11月22日となります。
 平安遷都(へいあんせんと)は、奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものでした。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められます。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km),東西32町(4.57km)に及びました。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされています。
 遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されました。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されています。
 以下に、『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分と『日本後紀』の平安京造営の停止の部分を抜粋しておきましたので、ご参照下さい。

〇平安京とは?

 桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところです。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられました。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移りました。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失します。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」


〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)詩人中原中也の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」を出す詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ