ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年10月

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 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、小説家・児童文学作家灰谷健次郎の生まれた日です。
 灰谷健次郎(はいたに けんじろう)は、兵庫県神戸市の貧しい家庭に生まれ、働きながら定時制高校商業科を卒業し、大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)学芸学部へ入学しました。卒業後、小学校教師となり、一方で児童詩誌『きりん』の編集に携わるようになり、自らも詩や小説を書き、1965年(昭和40)に『せんせいけらいになれ』を発表します。
 1967年(昭和42)に長兄の自殺、翌年には母が亡くなり、1971年(昭和46)には、17年間勤めた小学校教師を辞めました。沖縄やアジア各地を放浪した後、1974年(昭和49)長編小説『兎(うさぎ)の眼(め)』を発表、不幸な境遇の子にヒューマンな愛情を注ぐ若い女教師をえがき、ベストセラーとなり、日本児童文学者協会新人賞を受賞します。
 続いて、1978年(昭和53)発表の『太陽の子』もミリオンセラーとなり、同年の『ひとりぼっちの動物園』では小学館文学賞を受賞しました。それらの文学的業績によって、1979年(昭和54)に第1回路傍の石文学賞を受賞、その後、『灰谷健次郎エッセイ集 島へゆく』(1981年)、『灰谷健次郎エッセイ集 島で暮す』(1982年)、『きりんの詩集 子どもの詩が生まれた』3冊(1986年)、長編小説『天の瞳(ひとみ)』(1996~2004年)などを著します。
 しかし、2006年(平成18)11月23日に、静岡県内の病院において、72歳で亡くなっています。

〇灰谷健次郎の主要な著作

・『せんせいけらいになれ』(1965年)
・『兎の眼(うさぎのめ)』(1974年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『太陽の子』(1978年)
・『ひとりぼっちの動物園』(1978年)小学館文学賞受賞
・林竹二との対談『対談 教えることと学ぶこと』(1979年)
・『わたしの出会った子どもたち』(1981年)
・エッセイ集『灰谷健次郎エッセイ集 島へゆく』(1981年)
・エッセイ集『灰谷健次郎エッセイ集 島で暮す』(1982年)
・『島物語』全5冊(1983~98年)
・『我利馬(ガリバー)の船出』(1986年)
・詩集『きりんの詩集 子どもの詩が生まれた』3冊(1986年)
・『灰谷健次郎アクショントーク わたしの子ども時代・青春時代』(1990年)
・『林先生に伝えたいこと』(1991年)
・エッセイ集『優しい時間』(1996年)
・長編小説『天の瞳(ひとみ)』(1996~2004年)
・『はるかニライ・カナイ』(1997年)
・エッセイ集『いのちまんだら』(1998年)
・紀行『アジアを生きる』写真は石川文洋(2001年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1943年(昭和18)軍需会社法」が公布される詳細
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takanochyouei01

 今日は、江戸時代後期の1850年(嘉永5)に、医師・蘭学者高野長英の亡くなった日ですが、新暦では12月3日となります。
 高野長英(たかの ちょうえい)は、1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を売ヶ投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英の主要な著作

・『避疫要法』(1832年)
・翻訳『西説医原枢要』(1832年)
・『救荒二物考』(1836年)
・『戊戌夢物語』(1838年)
・獄中記『わすれがたみ』(1839年)
・『蛮社遭厄(そうやく)小記』(1841年)
・『知彼一助』(1847年)
・翻訳『三兵答古知幾(タクチーキ)』(1847年)
・翻訳『家(ほうか)必読』(1848年)
・翻訳『兵制全書』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
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nagayoyoshirou01

 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、小説家・劇作家・評論家長与善郎の亡くなった日です。
 長与善郎(ながよ よしろう)は、明治時代前期の1888年(明治21)8月6日に、東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、医学者長與專齋の五男として生まれました。学習院高等科在学中思想書・文学書に接し、1911年(明治44)に志賀直哉や武者小路実篤らの同人誌『白樺』に参加します。
 同年、東京帝国大学文学部英文科へ入学しましたが、翌年退学しました。その後、自らの失恋体験に即した『盲目の川』(1914年)、結婚の経緯を描いた『彼等の運命』(1915~16年)などの自伝小説や戯曲『項羽と劉邦』(1916~17年)で人道主義的作家として認められます。
 以後、戯曲『夜の戯曲』(1920年)、小説『青銅の基督 (キリスト) 』(1923年)などを書いて高く評価されました。1923年(大正)の関東大震災で『白樺』が廃刊になった後は、翌年に『不二』を主宰し、同誌に思想小説『竹沢先生と云(い)ふ人』(1924~25年)を連載して広く世に迎えられます。
 大正時代末に病を得て、数年創作から離れた後に、1933年(昭和8)に明治大学講師として東洋思想を講じ、1935年(昭和10)から2年ほど満鉄嘱託として満州、中国を旅行しました。その中で、東洋の思想・美術への関心を深め、『大帝康煕』、『文化の問題』(ともに1938年)、『東洋の道と美』(1943年)、『東洋芸術の諸相』(1944年)などを刊行します。
 太平洋戦争後も幅広く活躍し、1948年(昭和23)に芸術院会員となり、1959年(昭和34)には、自伝的大作『わが心の遍歴』で第11回読売文学賞・評論伝記賞を受賞しました。しかし、1961年(昭和36)10月29日に、東京都世田谷区の自宅において、73歳で亡くなっています。

〇長与善郎の主要な著作

・小説『盲目の川』(1914年)
・小説『彼等の運命』(1915~16年)
・戯曲『項羽と劉邦』(1916~17年)
・小説『陸奥(むつ)直二郎』(1918年)
・戯曲『夜の戯曲』(1920年)
・小説『青銅の基督 (キリスト) 』(1923年)
・小説『竹沢先生と云(い)ふ人』(1924~25年)
・『大帝康煕(こうき)』(1938年)
・『文化の問題』(1938年)
・『韓非子』(1942年)
・『東洋の道と美』(1943年)
・『東洋芸術の諸相』(1944年)
・小説『野性の誘惑』(1947年)
・小説『その夜』(1948~51年)
・小説『押し花帖(ちょう)』(1954年)
・自伝『わが心の遍歴』(1957~59年)読売文学賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細


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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の亡くなった日です。
 正宗白鳥(まさむね はくちょう)は、明治時代前期の1879年(明治12)3月3日に、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)で、豪農の旧家だった父・正宗浦二、母・美禰の長男として生まれましたが、本名は忠夫(ただお)と言いました。旧藩校閑谷黌を卒業し、1896年(明治29)に上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)英語専修科に入学します。
 在学中にキリスト教夏期学校で内村鑑三に学び、キリスト教の洗礼を受けました。1901年(明治34)に卒業後、母校の出版部を経て、1903年(明治36)に読売新聞社に入社して、文芸・美術・演劇を担当します。
 翌年『寂寞』を発表して小説を書きはじめ、1907年(明治40)には最初の短編集『紅塵』を刊行し、新進作家として認められました。1908年(明治41)に「早稲田文学」へ発表した『何処へ』などで、自然主義文学運動の中心作家の一人となります。
 『安土の春』、『光秀と紹巴』(ともに1926年)などの戯曲も手掛け、1928年(昭和3)から翌年にかけての外遊後は、『文壇人物評論』などの評論分野でも活躍しました。1935年(昭和10)に島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立、1943年(昭和18)から会長に就任します。
 太平洋戦争後は、1950年(昭和25)に文化勲章受章、翌年文化功労者となったのをはじめ、1957年(昭和32)に批評活動で第5回菊池寛賞、1959年(昭和34)に小説『今年の秋』で第11回読売文学賞・小説賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。しかし、1962年(昭和37)10月28日に、東京において、83歳で亡くなっています。

〇正宗白鳥の主要な著作

・小説『寂寞』(1904年)
・小説『塵埃』(1907年)
・小説『何処へ』(1908年)
・小説『微光』(1910年)
・小説『泥人形』(1911年)
・小説『入江のほとり』(1915年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『死者生者』(1916年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『毒婦のやうな女』(1920年)
・戯曲『人生の幸福』(1924年)
・戯曲『安土 (あづち) の春』(1926年)
・戯曲『光秀と紹巴』(1926年)
・評論『文壇人物評論』(1932年)
・評論『文壇的自叙伝』(1938年)
・評論『自然主義盛衰史』(1948年)
・小説『日本脱出』(1949年)
・評論『内村鑑三』(1950年)
・自伝『文壇五十年』(1954年)
・小説『今年の秋』(1959年)読売文学賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、明治新政府に対する士族の反乱の一つ、秋月の乱が起きた日です。
 秋月の乱(あきづきのらん)は、福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)で、旧秋月藩士らが開明政策を掲げる明治新政府に対して起した反乱でした。1876年(明治9)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応し、旧秋月藩士族今村百八郎、宮崎車之助、磯淳、益田静方らが、萩の乱を起こす前原一誠と連絡をとりつつ挙兵します。
 攘夷主義を旗印に国権の拡張を主張して政府の諸政策に反対、特に征韓問題に対する政府の処置を批判しました。同月27日に今村を隊長とする「秋月党」が挙兵し、まず明元寺で説得にあたった福岡県警察官穂波半太郎を殺害し、萩の乱の前原軍との合流を企図して約250名で豊前豊津へと進撃、29日に到着します。
 旧豊津藩士等に参加を呼び掛けていましたが、乃木希典率いる小倉鎮台兵の奇襲にあい、敗北して31日に、「秋月党」は解散しました。離散して抵抗した者もいたものの、翌月3日までに鎮圧されます。
 12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下されました。

〇主要な士族の反乱

・佐賀の乱(1874年2月) 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて反乱を起こす
・神風連の乱(1876年10月) 熊本県で太田黒伴雄、加屋霽堅等が起こす
・秋月の乱(1876年10月) 福岡県で旧秋月藩士今村百八郎、宮崎車之助等を中心として起こす
・萩の乱(1876年10月) 山口県で前原一誠らによって起きる
・西南戦争(1877年2月) 旧薩摩藩の士族中心に起き、西郷隆盛を大将に擁立、日本国内最大規模の内戦
・福岡の変(1877年3月) 西郷隆盛に呼応する形で、福岡県で武部小四郎ら旧福岡藩士族により起きた

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細


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