ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年09月

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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、P.F.vonシーボルトがシーボルト事件によって、国外追放処分を受けた日ですが、新暦では10月22日となります。
 シーボルト事件(しーぼるとじけん)は、1828年(文政11)に、オランダ商館付のドイツ人医師P.F.vonシーボルトが帰国の際に、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚した事件でした。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行し、幕府天文方高橋景保からは,クルーゼンシュテルンの『世界一周記』等と交換に、伊能忠敬の日本沿海実測図をもとにした地名入りの日本略図、蝦夷地図、間宮林蔵『東韃紀行』を贈られ、幕府眼科奥医師土生玄碩(はぶげんせき)からは、開瞳術伝授と交換に将軍拝領の葵の紋服を贈られます。
 それらが、1828年(文政11)に帰国する際に、8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した、コルネリス・ハルトマン号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか26点の品が押収されました。取調べは江戸と長崎で行われて長引き、P.F.vonシーボルトは約1年間長崎の出島に拘禁され、1829年(文政12年9月25日)に「日本御構(おかまえ)」の判決(国外追放処分)を受け、同年12月に日本より追放され、再渡航禁止を宣告されます。
 また江戸では、高橋景保が1828年(文政11年10月10日)に検挙され,翌年2月16日に獄死しましたが、死骸を塩漬にされ、1829年(文政13年3月26日)死刑の判決を受け、奥医師土生玄碩(家禄・屋敷没収)、長崎屋源右衛門などが、長崎では、門人の二宮敬作、高良斎、出島絵師川原登与助はじめ、通詞の馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、堀儀左衛門、末永甚左衛門、岩瀬弥右衛門、同弥七郎から召使いに至るまで50数人の多数が処分を受けました。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになります。
 尚、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となりました。

〇P.F.vonシーボルトとは?

 ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言います。
 1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれました。1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられます。
 1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ました。1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任します。
 まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入りました。翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てます。
 1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちました。また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めます。
 帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けました。
 その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日します。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しました。
 尚、『日本』 Nippon(1832~54年)、『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)、『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)など日本関係の論著を多く残しています。

☆P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作

・『日本』 Nippon(1832~54年)
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』

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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃した日です。
 西郷隆盛(さいごう たかもり)は、江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。
 しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。
 1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。
 1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

〇西郷隆盛関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政10年12月7日) 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれる
・1841年(天保12年) 元服し吉之介隆永と名乗る
・1844年(弘化元年) 18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめる
・1847年(弘化4年) 郷中の二才頭となる
・1851年(嘉永4年2月2日) 島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になる
・1852年(嘉永5年) 父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀と結婚する
・1853年(嘉永6年2月) 家督相続を許可されたが、この頃に通称を吉之介から善兵衛に改める
・1854年(安政元年) 農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬にみいだされ、庭方役に抜擢される
・1855年(安政2年) 西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める
・1858年(安政5年) 斉彬が急死する
・1858年(安政5年11月) 同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが命を取り留める
・1859年(安政6年1月) 奄美大島に流される
・1862年(文久2年1月) 島津久光が公武合体運動着手にあたり召還され、大島三右衛門と改名する
・1862年(文久2年7月) 久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島へ流される
・1862年(文久2年閏8月) さらに沖永良部島へ遠島となる
・1864年(元治元年2月28日) 赦免され鹿児島に帰る
・1864年(元治元年3月22日) 軍賦役、小納戸頭取となり上京し、伏見に着く
・1864年(元治元年7月18日) 蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝する
・1864年(元治元年7月23日) 長州藩追討の朝命が出る(第一次長州征伐)
・1864年(元治元年10月初旬) 御側役・代々小番に昇進、西郷吉之助と名のる
・1864年(元治元年10月12日) 第一次長州征伐において、征長軍の参謀に任じられる
・1864年(元治元年12月27日) 長州藩の無血降伏を実現し、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じる
・1865年(慶応元年1月中旬) 鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませる
・1866年(慶応2年1月21日) 土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約する
・1866年(慶応2年6月7日) 第二次長州征伐が始まる
・1867年(慶応3年5月21日) 中岡慎太郎の仲介で、土佐藩の乾退助、谷干城らと薩土討幕の密約を結ぶ
・1867年(慶応3年10月14日) 討幕の密勅が薩長両藩に降下したが、同日将軍慶喜は大政奉還を上表する
・1867年(慶応3年12月9日) 王政復古の大号令が発布される(王政復古のクーデター)
・1867年(慶応3年12月) 明治新政府の参与に任命される
・1868年(慶応4年1月3日) 京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦いで撃退する
・1868年(慶応4年2月) 戊辰戦争では東征大総督府参謀に就任する
・1868年(慶応4年3月) 勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功する
・1868年(慶応4年9月27日) 庄内藩討伐にあたり、降伏させたものの、寛大な処置をとる
・1869年(明治2年2月) 藩参政に就任、門閥打破、大規模常備軍の編成を柱に藩政改革を推進する
・1870年(明治3年7月3日) 太政官から鹿児島藩大参事に任命される
・1870年(明治3年暮れ) 鹿児島に下向した勅使岩倉具視に政府改革のいくつかの条件を認めさせる
・1871年(明治4年1月) 政府強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて上京する
・1871年(明治4年6月) 提案した御親兵の編成が成り、明治新政府の参議に就任する
・1871年(明治4年7月) 参議筆頭となり、廃藩置県に主導的役割を果たす
・1871年(明治4年11月) 岩倉使節団出発後、筆頭参議兼大蔵省御用掛として、急進的改革政策を指導する
・1872年(明治5年5月~7月) 明治天皇の中四国九州巡幸に随行する
・1872年(明治5年7月29日) 陸軍元帥兼参議に任命される
・1873年(明治6年)5月 朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生する
・1873年(明治6年)8月 閣議は西郷の要望をいれ朝鮮派遣使節に内定する
・1873年(明治6年)9月 太政大臣三条実美が、右大臣岩倉具視と共に、朝鮮派遣の延期を求めるが断る
・1873年(明治6年)10月15日 閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定される
・1873年(明治6年)10月23日 西郷はこの処置に抗議の辞表を出す
・1873年(明治6年)10月24日 板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣も抗議辞職する(明治六年政変)
・1873年(明治6年)11月10日 帰郷引退し、鹿児島へ着く
・1874年(明治7年)2月 佐賀の乱が起きる
・1874年(明治7年)6月頃 県令・大山綱良の協力を得て、私学校がつくられる
・1876年(明治9年)10月24日 神風連の乱が起きる
・1876年(明治9年)10月27日 秋月の乱が起きる
・1876年(明治9年)10月28日 萩の乱が起きる
・1877年(明治10年) 私学校派士族が政府に挑発されて反乱(西南戦争)を起こすと、その先頭に立たされる
・1877年(明治10年)9月24日 西南戦争に敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃する

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 今日は、江戸時代中期の1790年(寛政2)に、前句付点者柄井川柳が亡くなった日ですが、新暦では10月30日となります。
 柄井川柳(からい せんりゅう)は、1718年(享保3)に、代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主の家系に生まれましたが、幼名は勇之助(のち正通)と言いました。初め談林派の点者であったともいわれますが、1755年(宝暦5)38歳のときに家を継いで名主となります。
 1757年(宝暦7年8月25日)に前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行し、山手を中心地盤に、以後毎年8月から年末まで、月3回5のつく日に句合を興行しました。1762年(宝暦12)には応募句が1万句を超して人気を博し、明和年中(1764~72年)には江戸の第一人者となります。
 1765年(明和2)に、その選句の中から前句付作者呉陵軒可有の協力を得て756句選び、前句抜きで『誹風柳多留 (はいふうやなぎだる) 』として出版しました。これによって、いわゆる川柳というジャンルを確立し、その後『誹風柳多留』は 24編出版されましたが、1790年(寛政2年9月23日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、川柳の号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれてきました。

〇『誹風柳多留』の代表的な句

・「侍が来ては買ってく高楊枝」
・「役人の子はにぎにぎを能く覚え」
・「芭蕉翁ぽちゃんと云ふと立ちどまり」
・「五右衛門はなまにえの時一首よみ」
・「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」
・「是小判たった一晩居てくれろ」
・「駿河丁畳のうへの人通り」
・「けんやくを武芸のようにいゝ立てる」
・「人は武士なぜ蔵宿にあてがわれ」
・「抜けば抜け後で竹とはいはさぬぞ」
・「いにしへは某今はなにもなし」
・「れんこんはここらを折れと生まれつき」
・「百両をほどけば人をしさらせる」
・「駕籠賃をやつて女房はつんとする」
・「初鰹家内残らず見た計」
・「母親はもつたいないがだましよい」
・「碁敵は憎さも憎しなつかしさ」
・「寝てゐても団扇の動く親心」
・「後家の質男ものから置きはじめ」

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 今日は、鎌倉時代の1311年(応長元)に、武将・鎌倉幕府第10代執権北条師時の亡くなった日ですが、新暦では11月3日となります。
 北条師時(ほうじょう もろとき)は、1275年(建治元年)に、北条宗政の子(母は北条政村の娘)として生まれましたが、通称は武蔵四郎と言いました。1281年(弘安4)に父・北条宗政が亡くなると伯父・北条時宗の猶子となり、1284年(弘安7)に10歳で小侍所別当となります。
 翌年、11歳で左近将監・従五位下に叙爵し、1293年(永仁元)には19歳で評定衆となり、続いて、三番引付頭人、執奏となり、従五位上に昇叙しました。1299年(正安元)に正五位下に昇叙し、1301年(正安3年8月22日)には、出家した貞時のあとをうけて、鎌倉幕府第10代執権となりますが、実権は貞時に握られています。
 同年9月に相模守となり、1304年(嘉元2)には従四位下に昇叙しました。1311年(応長元年9月21日)に出家し道覚と号しましたが、翌9月22日に鎌倉において、評定中にその座でそのまま死去(享年37歳)したと伝えられています。

〇北条師時関係略年表(日付は旧暦です)

・1275年(建治元年) 北条宗政の子(母は北条政村の娘)として生まれる
・1281年(弘安4年7月) 第2回元寇(弘安の役)が起きる
・1281年(弘安4年8月9日) 父・北条宗政が亡くなる
・1284年(弘安7年7月) 10歳で小侍所別当となる
・1285年(弘安8年) 11歳で左近将監・従五位下に叙爵する
・1285年(弘安8年11月) 霜月騒動が起きる
・1293年(永仁元年4月) 平頼綱の乱が起きる 
・1293年(永仁元年5月30日) 評定衆となる
・1293年(永仁元年6月5日) 三番引付頭人となる
・1293年(永仁元年10月20日) 執奏となる
・1293年(永仁元年12月20日) 従五位上(19歳)となる
・1294年(永仁2年1月30日) 右馬権頭となる
・1297年(永仁5年7月) 二番引付頭人(23歳)となる
・1299年(正安元年2月27日) 正五位下(25歳)となる
・1301年(正安3年8月22日) 鎌倉幕府第10代執権となる
・1301年(正安3年9月27日) 相模守に遷任(27歳)される
・1304年(嘉元2年10月) 従四位下となる
・1311年(応長元年9月21日) 出家し道覚と号する
・1311年(応長元年9月22日) 鎌倉において、数え年37歳で亡くなる

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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の亡くなった日です。
 御木本幸吉(みきもと こうきち)は、江戸時代後期の1858年(安政5年1月25日)に、志摩国鳥羽浦の大里(現在の三重県鳥羽市)で代々うどんの製造・販売「阿波幸」を営む父・音吉、母・もとの長男として生まれましたが、幼名は吉松と言いました。幼いころから旧藩士や洋学者のもとへ勉学に通い、少年時代には青物行商などで生計を立てます。
 1878年(明治11)に家督を相続し、御木本幸吉と改名、海産物取引へと転換し、1880年(明治13)には鳥羽町会議員となりました。天然真珠の売買も行うようになり、29歳のときには英照皇太后の命により真珠を上納し、1889年(明治22)にアコヤガイ(真珠貝)の養殖に着手、翌年の第3回内国勧業博覧会にはアコヤガイや真珠を出品しています。
 1896年(明治29)に多徳島に真珠の養殖場を設け、1899年(明治32)に東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設、翌年のパリ博覧会に真珠を出品、箕作佳吉らの指導をうけ、1902年(明治26)に半円真珠、1914年(明治38)には真円真珠の養殖に成功しました。以後これを事業化して、1919年(大正8)にロンドン市場に売出し、1924年(大正13)には多額納税者として貴族院議員ともなります。
 1927年(昭和2年)にはニューヨーク支店開設、1929年(昭和4)にパリ支店を開設するなど、世界中に販路を拡張して、「真珠王(パールキング)」と呼ばれました。戦時中は政府に真珠養殖を禁じられたものの、1950年(昭和25)に再開、各地の博覧会などに出品します。
 世界に“ミキモト・パール”の名声を轟かしましたが、1954年(昭和29)9月21日に、96歳で亡くなっています。

〇御木本幸吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1858年(安政5年1月25日)志摩国鳥羽浦の大里で代々うどんの製造・販売「阿波幸」を営む父・音吉、母・もとの長男として生まれる
・1872年(明治5) 14歳で家業の傍ら青物の行商を始める
・1876年(明治9) 青物商から米穀商に転換する
・1878年(明治11) 家督を相続し、御木本幸吉と改名する
・1878年(明治11)3月 海産物商人へと転身する
・1880年(明治13) 鳥羽町会議員となる
・1881年(明治14) うめと結婚する
・1883年(明治16) 父・音吉が54歳で死去する
・1887年(明治20) 29歳のときに英照皇太后の命により真珠を上納する
・1888年(明治21)6月 第2回全国水産品評会のため上京する
・1889年(明治22) アコヤガイ(真珠貝)の養殖に着手する
・1890年(明治23) 第3回内国勧業博覧会にアコヤガイや真珠を出品する
・1896年(明治29)1月27日 半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知される
・1896年(明治29)4月21日 妻・うめが32歳で死去する
・1896年(明治29) 多徳島に真珠の養殖場を設ける
・1899年(明治32) 東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設する
・1900年(明治33) パリ博覧会に真珠を出品する
・1901年(明治34) 東京・銀座の元数寄屋町に御木本真珠店を移転する
・1902年(明治26) 半円真珠の養殖に成功する、
・1903年(明治36) 東京・銀座四丁目に御木本真珠店進出、市川源次郎金細工工場を御木本下請け工場として、京橋区築地に移転する
・1903年(明治36) 市川源次郎金細工工場を買収し御木本金細工工場とする
・1914年(明治38) 真円真珠の養殖に成功する
・1916年(大正5) 真珠素質被着法の特許(第3002号)を取得する
・1916年(大正5) 中国視察にでかけ、上海支店を開設する
・1919年(大正8) ロンドン市場に売出す
・1924年(大正13) 多額納税者として貴族院議員となる
・1927年(昭和2) ニューヨーク支店を開設する
・1928年(昭和3) ロンドンのリーゼント街に小売店を開店する
・1929年(昭和4) パリ支店を開設する
・1931年(昭和6) ロサンゼルス支店を開設する
・1933年(昭和8) シカゴ支店を開設する
・1949年(昭和24) 真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞を受賞する
・1950年(昭和25) 戦時中禁止されていた真珠の養殖を再開する
・1954年(昭和29)9月21日 96歳で亡くなる

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