ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年09月

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 今日は、南北朝時代の1351年(観応2/正平6)に、臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓国師)の亡くなった日ですが、新暦では10月20日となります。
 夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代の1275年(建治元)に、伊勢国で、宇多(うだ)源氏の出身とされる父・佐々木朝綱の子(母は平政村の娘)として生まれ、初名は智(ちかく)と言いました。4歳で甲斐国(現在の山梨県)に移住し、1283年(弘安6)に9歳で甲斐平塩寺の空阿の弟子となって密教を学び、1292年(正応5)に18歳で東大寺戒壇院で具足戒を受けます。
 1294年(永仁2)20歳にして京都建仁寺の無隠円範に接し、禅宗に帰依し、その後鎌倉へ赴き、桃渓徳悟、約翁徳倹、一山一寧らを訪ねて教えを受けました。1300年(正安2)下野国(現在の栃木県)那須雲巌寺にとどまった後、ふたたび鎌倉に帰り、1303年(嘉元元)に万寿寺の高峰顕日に禅宗を学び、1305年(嘉元3)には浄智寺で印可を受けます。
 それからも各地を遊歴し、甲斐の龍山庵(後の天龍山栖雲寺)や美濃の古谿庵(後の虎渓山永保寺)に草庵を営んだのち、土佐国五台山に吸江庵を結びました。1325年(正中2)に後醍醐天皇の要望により上洛し、勅願禅寺である南禅寺の住持となりますが、北条氏に請われて鎌倉に入り、1333年(元弘3/正慶2)に鎌倉幕府が滅亡すると、上京して再び南禅寺に入ります。
 1335年(建武2)に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられ、1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇が亡くなると、足利尊氏に菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し、利生塔を設置することを勧めました。また、冥福を祈るために尊氏が天龍寺を建てると、招かれて開山となり、天龍寺船による宋との貿易を促します。
 多くの弟子を教化し、義堂周信や絶海中津、無極志玄、春屋妙葩らを出し、五山文化に影響を与え、庭園設計、詩偈、和歌にもすぐれましたが、1351年(正平6年/観応2年9月30日)に、京都の臨川寺三会院において、数え年76歳で亡くなりました。

〇夢窓疎石の主要な著作

・『夢中(むちゅう)問答集』
・『西山(せいざん)夜話』
・『谷響(こっきょう)集』
・『和歌集』
・『臨川寺家訓』
・『夢窓国師語録』

〇夢窓疎石作庭の庭園

・西芳寺庭園(京都市西京区)世界遺産、国の特別名勝
・天龍寺庭園(京都市右京区)世界遺産、国の特別名勝
・永保寺庭園(岐阜県多治見市)国の名勝
・瑞泉寺庭園(神奈川県鎌倉市)国の名勝
・恵林寺庭園(山梨県甲州市)国の名勝
・覚林房庭園(山梨県身延町)町指定文化財ほか

☆夢窓疎石関係略年表(日付は旧暦です)

・1275年(建治元年) 伊勢国で、父・佐々木朝綱の子(母は平政村の娘)として生まれる
・1278年(弘安元年) 4歳で甲斐国(現在の山梨県)に移住する
・1283年(弘安6年) 9歳で甲斐平塩寺の空阿の弟子となって密教を学ぶ
・1292年(正応5年) 18歳で東大寺戒壇院で具足戒を受ける
・1294年(永仁2年) 20歳にして京都建仁寺の無隠円範に接し、禅宗に帰依する
・1299年(正安元年) 鎌倉建長寺の一山一寧のもとで首座を勤める
・1300年(正安2年) 下野国(現在の栃木県)那須雲巌寺にとどまる
・1303年(嘉元元年) 鎌倉万寿寺の高峰顕日に禅宗を学ぶ
・1305年(嘉元3年) 鎌倉浄智寺で印可を受ける
・1305年(嘉元3年) 甲斐牧の荘の浄居寺を創建する
・1311年(応長元年) 龍山庵(後の天龍山栖雲寺)を結び一時隠棲する
・1313年(正和3年) 美濃国に古谿庵を開く
・1314年(正和4年) 美濃国に観音堂(虎渓山永保寺)を開く
・1317年(文保元年) 同門の元翁本元(仏徳禅師)に観音堂(虎渓山永保寺)の後事を託して上京する
・1319年(元応元年) 北条貞時夫人の請により鎌倉の勝栄寺に寓居する
・1325年(正中2年) 後醍醐天皇の要望により上洛し、勅願禅寺である南禅寺の住持となる
・1326年(正中3年) 南禅寺住持の職を辞し、伊勢の善応寺を開く
・1327年(嘉暦2年) 二階堂道蘊が鎌倉に瑞泉院(のちの瑞泉寺)を創建し、開山となる
・1330年(元徳2年) 甲斐守護の二階堂貞藤(道蘊)に招かれ牧庄内に恵林寺を創建、再び瑞泉寺に戻る
・1333年(元弘3年/正慶2年) 鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行う
・1334年(建武元年) 再び南禅寺の住職となる
・1335年(建武2年) 後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられる
・1335年(建武2年) 後醍醐天皇が皇子世良親王追悼のため、勅願寺として臨川寺を開創、開山に招かれる
・1339年(延元4年/暦応2年8月) 後醍醐天皇が亡くなる
・1339年(延元4年/暦応2年) 幕府の重臣(評定衆)である中原親秀に請われ、西芳寺の中興開山を行う
・1339年(延元4年/暦応2年) 足利尊氏が後醍醐天皇追悼の為、天龍寺建立を開始し、招かれて開山となる
・1342年(興国3年/暦応5年) 天龍寺船の派遣を献策する
・1345年(興国6年/貞和1年8月)光巌上皇・光明天皇臨幸のもとに後醍醐天皇七周忌と天龍寺落慶仏事を行う
・1346年(正平元年/貞和2年) 退席し、正覚国師の号を賜る
・1351年(正平6年/観応2年) 天龍寺に再住し、光巌上皇より心宗国師の号を賜る
・1351年(正平6年/観応2年9月30日) 京都の臨川寺三会院において、数え年76歳で亡くなる

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 今日は、 平安時代中期の930年(延長8)に、第60代の天皇とされる醍醐天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月23日となります。
 醍醐天皇(だいごてんのう)は、885年(元慶9年1月18日)に、京都において、臣籍に降下していた源定省(のちの宇多天皇)の長男(母は内大臣藤原高藤の娘)として生まれましたが、名は維城(これざね)と言いました。887年(仁和3)に父の皇籍復帰と即位に伴い、皇族に列し、890年(寛平元)に親王宣下され、翌年に敦仁(あつぎみ)と改名します。
 893年(寛平5)に立太子し、父宇多天皇から壺切御剣を下賜され、897年(寛平9年7月3日)に元服すると同日践祚し、同月13日に第60代とされる天皇として即位、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、親政を行いました。しかし、901年(昌泰4)に藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷する昌泰の変が起こります。
 901年(昌泰4)に『日本三代実録』が完成・撰上され、翌年には、班田の励行や荘園整理令を発布、905年(延喜5)に『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じ、『延喜式』を時平に編纂させ、907年(延喜7)には『延喜格』が完成し、撰上されるなど事績を積み上げました。これらの政務への精励やその治績は、後世に62代の村上天皇の時代とともに「延喜・天暦の治」と称えられたものの、律令政治の衰微過程にあったとされています。
 909年(延喜9)に時平が亡くなり、911年(延喜11)に保明親王も21歳で早世、慶頼王を皇太孫としましたが、913年(延喜13)に5歳で夭折するなど不幸が続きました。これらは、菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、923年(延喜23)に菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めます。
 ところが、930年(延長8)に、清涼殿落雷事件が起きると体調を崩し、同年9月22日に皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位(朱雀天皇)し、同月29日に出家(法名は宝金剛)すると同日に数え年46歳で亡くなりました。尚、和歌に堪能で、以後の勅撰集に計43首が入集しているほか、家集『延喜御集』も編んでいます。

<代表的な歌>

・「春風の 吹かぬ世にだに あらませば 心のどかに 花は見てまし」(続後撰和歌集)
・「かくてこそ 見まくほしけれ 万代を かけてにほへる 藤浪の花」(新古今和歌集)
・「うつつにぞ とふべかりける 夢とのみ 迷ひしほどや 遥けかりけむ」(後撰和歌集)
・「人ごころ たのみがたきは 難波なる 葦のうら葉の うらみつべきを」(延喜御集)
・「いはひつる ことだまならば 百年の 後もつきせぬ 月をこそ見め」(玉葉和歌集)

〇醍醐天皇の主要な著作

・『醍醐天皇御記』
・家集『延喜御集』

☆醍醐天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・885年(元慶9年1月18日) 京都において、宇多天皇の第1皇子(母は内大臣藤原高藤の娘)として生まれる
・887年(仁和3年) 父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列する
・890年(寛平元年12月28日) 親王宣下される
・891年(寛平2年12月17日) 敦仁(あつぎみ)に改名する
・892年(寛平4年) 菅原道真の編纂により『類聚国史』が完成・成立する
・893年(寛平5年4月2日) 立太子し、父宇多天皇から壺切御剣を下賜される
・897年(寛平9年7月3日) 元服すると同日践祚する
・897年(寛平9年7月13日) 第60代とされる天皇として即位し、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる
・901年(昌泰4年2月) 藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷する(昌泰の変)
・901年(昌泰4年8月) 『日本三代実録』が完成し、撰上される 
・902年(延喜2年) 時平と共に班田の励行や荘園整理令を発布する
・905年(延喜5年) 『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じる
・905年(延喜5年) 『延喜式』を藤原時平に編纂させる
・907年(延喜7年11月) 『延喜格』が完成し、撰上される 
・909年(延喜9年) 藤原時平が亡くなる
・911年(延喜11年) 保明親王も21歳で早世する
・913年(延喜13年) 慶頼王を皇太孫としたが、5歳で夭折する
・914年(延喜14年) 三善清行が意見封事十二箇条が奏上する
・923年(延喜23年) 菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努める
・927年(延長5年12月) 『延喜式』が完成し、撰上される
・930年(延長8年6月) 清涼殿落雷事件が起きる
・930年(延長8年9月22日) 皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位(朱雀天皇)する
・930年(延長8年9月29日) 出家(法名は宝金剛)すると同日に数え年46歳で亡くなる
・930年(延長8年10月10日) 山城国宇治郡山科陵に土葬される

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 今日は、戦国時代の1500年(明応9)に、第103代の天皇とされる後土御門天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月21日となります。
 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)は、1442年(嘉吉2年5月25日)に、京都において、後花園天皇の第1皇子(母は嘉楽門院信子)として生まれましたが、名は成仁(ふさひと)と言いました。後花園天皇には他に男子が生まれなかったので、生母を公卿・大炊御門家の養女にして、皇位継承者として定められ、1457年(長禄元年12月19日)に親王宣下されます。
 1461年(寛正2年)には、寛正の大飢饉が起こり、徳政一揆が起きるなど不安定な状況下、1464年(寛正5)に後花園天皇の譲位を受けて践祚し、翌年12月27日に第103代とされる天皇として即位しましたが、後花園上皇による院政が行われました。しかし、1467年(応仁元年5月)に応仁の乱が始まり、寺社や公卿の館は焼け、1467年(応仁元)には、戦乱のため室町第が仮御所となります。
 1470年(文明2)に後花園上皇による院政が終わり、親政が始まったものの、内大臣日野勝光・日野富子兄妹の専横や禁裏領荘園の押領などがあって、財政は窮迫して朝儀もままならなくなりました。
 1477年(文明9)には、応仁の乱が終わり、1479年(文明11)へ土御門内裏へ移りましたが、1485年(文明17)に山城の国一揆が起き、1493年(明応2)に細川政元が将軍足利義材を廃し、足利義澄を立てるクーデター(明応の政変)が起きるなど政情不安が続く中、1500年(明応9年9月28日)に、京都において、数え年59歳で亡くなっています。ところが、費用がなくて葬儀を行うことができず、内裏黒戸に遺骸を置くこと40余日、11月11日にようやく葬儀が執り行われました。
 尚在位中は、朝儀の維持存続を心がけ、有職故実の研究や儀式の習礼を廷臣に奨励、和歌・連歌に長じ、『紅塵灰集』、『いその玉藻』、『百日和歌詠草』などの歌集を残しています。

<代表的な歌>

・「誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ」
・「ともすれば 道にまよへる 位山 うへなる身こそ くるしかりけれ」(後土御門院御集拾遺)

〇後土御門天皇の主要な著作

・歌集『紅塵灰集(こうじんかいしゅう)』
・歌集『いその玉藻』
・歌集『百日和歌詠草』

☆後土御門天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1442年(嘉吉2年5月25日) 京都において、後花園天皇の第1皇子(母は嘉楽門院信子)として生まれる
・1457年(長禄元年12月19日) 親王宣下される
・1461年(寛正2年) 寛正の大飢饉が起こる
・1464年(寛正5年7月19日) 後花園天皇の譲位を受けて践祚する
・1465年(寛正6年12月27日) 第103代とされる天皇として即位する
・1466年(文正元年末) 大嘗会を挙行する
・1467年(応仁元年5月) 応仁の乱が始まる
・1467年(応仁元年8月) 戦乱のため室町第が仮御所となる
・1470年(文明2年) 後花園上皇による院政が終わる
・1477年(文明9年11月) 応仁の乱が終わる
・1479年(文明11年) 土御門内裏へ移る
・1485年(文明17年12月) 山城の国一揆が起こる
・1493年(明応2年4月) 細川政元が将軍足利義材を廃し、足利義澄を立てるクーデター(明応の政変)が起こる 
・1500年(明応9年9月28日) 京都において、数え年59歳で亡くなる
・1500年(明応9年11月11日) 葬儀がとりおこなわれる

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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、狩野川台風(昭和33年台風第22号)が神奈川県に上陸し、大きな被害を出した日です。
 狩野川台風(かのがわたいふう)は、昭和33年台風第22号(国際名:Ida)のことで、9月26日に伊豆半島をかすめ、9月27日0時に神奈川県の三浦半島付近に上陸して、関東地方東部を縦断して北東に抜けました。
 1958年(昭和33)9月21日に、グアム島の東海上で台風となり、22日午後に進路を北西から次第に北に変えると共に急激に発達し始め、24日13時30分のアメリカ軍の飛行機観測では中心気圧8779hPa(ヘクトパスカル)が観測されます。これは当時、台風のみならず最低気圧の世界記録であり、1973年(昭和48)の台風第15号で875hPaが測定されるまで破られませんでした。
 その後北上して、26日21時頃伊豆半島のすぐ南を通過、27日0時頃に三浦半島付近に上陸しましたが、中心気圧は960hPaに衰えていたものの、日本付近に横たわる秋雨前線を刺激し、東日本に大雨を降らせ、狩野川上流部では日雨量691mmにも達します。
 これによって、伊豆半島の狩野川などが決壊し、洪水や土砂崩れ等によって、30都道府県に大被害をもたらし、死者・行方不明1,269名、住家の全・半壊・流出16,743戸、住家の床上・床下浸水521,715戸、耕地被害89,236ha、船舶被害260隻にも及びました。
 特に、狩野川流域の被害が甚大で、気象庁はこの年の11月に「狩野川台風」と命名しましたが、同時にさかのぼって命名された「洞爺丸台風」と共に、公式に名称が与えられた最初の台風となります。(過去にも俗称として、室戸台風、枕崎台風、阿久根台風など固有名の付けられた台風があった)

〇海上における中心気圧(hPa)が低い台風ベスト10

1,中心気圧870hPa 
 昭和54年台風第20号(Tip)1979年10月12日観測[沖ノ鳥島南東] 
2,中心気圧875hPa
 昭和48年台風第15号(Nora)1973年10月6日観測[フィリピン東方] 
 昭和50年台風第20号(June)1975年11月19日観測[マリアナ近海] 
4,中心気圧877hPa
 狩野川台風・昭和33年台風第22号(Ida)1958年9月24日観測[沖ノ鳥島付近] 
5,中心気圧880hPa
 昭和41年台風第4号(Kit)1966年6月26日観測[南大東島南方] 
 昭和53年台風第26号(Rita)1978年10月25日観測[フィリピン東方] 
 昭和59年台風第22号(Vanessa)1984年10月26日観測 
8,中心気圧885hPa
 昭和28年台風第7号(Nina)953年8月13日観測 
 昭和34年台風第9号(Joanv)1959年8月29日観測[宮古島南方] 
 昭和46年台風第35号(Irma)1971年11月12日観測[フィリピン東方] 
 昭和58年台風第10号(Forrest)1983年9月23日観測[沖ノ鳥島南方] 
 平成22年台風第13号(Megi)2010年10月17日観測[フィリピン東方] 

〇気象庁命名台風一覧

・洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) 1954年[国際名:Marie]
・狩野川台風(昭和33年台風第22号) 1958年[国際名:Ida]
・宮古島台風(昭和34年台風第14号) 1959年[国際名:Sarah]
・伊勢湾台風(昭和34年台風第15号) 1959年[国際名:Vera]
・第2室戸台風(昭和36年台風第18号) 1961年[国際名:Nancy]
・第2宮古島台風(昭和41年台風第18号) 1966年[国際名:Cora]
・第3宮古島台風(昭和43年台風第16号) 1968年[国際名:Della]
・沖永良部台風(昭和52年台風第9号) 1977年[国際名:Babe]

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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、福岡県北九州市洞海湾に架かる、当時東洋一の長さ(中央径間:367m)の若戸大橋が開通した日です。
 若戸大橋(わかとおおはし)は、福岡県北九州市戸畑区と若松区の洞海湾を跨ぐ吊り橋で、全長2,068m、中央径間367m、主塔高84.2m、海面からの高さ42.6mで、桁下は1万t級の船舶が航行可能でした。日本における長大つり橋の先駆けで、開通当初は東洋最長で、1973年(昭和48)に、関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通するまでその座にありました。
 若松・戸畑両区間の交通近代化と、船舶の湾内外への航行混雑を緩和するため、日本道路公団によって、アメリカ合衆国のフィラデルフィア―カムデンにかかるウォルト・ホイットマン橋をモデルにして、1958年(昭和33)に着工します。4年余の工期を経て、1962年(昭和37)9月26日に開通し、翌日から有料道路として供用が開始されました。
 開通当初は、幅3mの歩道が設けられていましたが、北九州臨海工業地帯の産業道路としての交通量の増大に伴い、1987年(昭和62)に歩道を廃止し、車道が拡幅され、1990年(平成2)に4車線化工事が完成しています。2005年(平成17)に管理者が日本道路公団から北九州市に変更され、翌年から北九州市道路公社管理となりました。
 その後も交通量が増え続け、2012年(平成24)には、渋滞緩和のため海底トンネルである若戸トンネル(新若戸道路)が開通しています。尚、2018年(平成30)12月1日から、若戸大橋と若戸トンネルの無料化が実施されました。

〇若戸大橋関係略年表

・1958年(昭和33) 着工する
・1962年(昭和37)9月26日 開通する(供用開始は翌日)
・1962年(昭和37)9月28日~11月25日 開通記念の「若戸大橋完成記念-産業・観光と宇宙大博覧会」が開催される
・1963年(昭和38)9月25日~27日 開通1周年を記念して、第1回若戸大橋みなと祭が開催される
・1972年(昭和47)2月1日 歩行者の通行料金が無料化される
・1984年(昭和59)4月 4車線化工事が着工される
・1987年(昭和62)5月 歩道が廃止される
・1990年(平成2)3月31日 4車線化工事が完成する
・2005年(平成17)9月30日 管理者が日本道路公団から北九州市に変更される
・2006年(平成18)4月1日 管理者が北九州市から北九州市道路公社に変更される
・2006年(平成18)8月1日 若戸トンネル(新若戸道路)と一元管理することを前提に、通行料金が値下げされる
・2011年(平成23) 開通50年を前に大規模補修工事が開始される
・2012年(平成24)9月15日 若戸トンネルの供用が開始される
・2012年(平成24)9月27日 開通50周年を迎える
・2018年(平成30)12月1日 若戸大橋と若戸トンネルが午前0時から無料化される

〇日本における戦後の長大橋建設略年表

・1955年(昭和30) 長崎県の西海橋(径間243.7m)
・1961年(昭和36) 徳島県鳴門市の小鳴門橋(中央径間160m)
・1962年(昭和37) 福岡県北九州市の若戸大橋(中央径間367m)
・1973年(昭和48) 福岡県北九州市・山口県下関市の関門橋(中央径間712m)
・1983年(昭和58) 広島県尾道市の因島大橋(中央径間770m)
・1985年(昭和60) 徳島県鳴門市・兵庫県南あわじ市の大鳴門橋(中央径間876m)
・1988年(昭和63) 香川県坂出市の南備讃瀬戸大橋(中央径間1,100m)
・1988年(昭和63) 香川県坂出市の北備讃瀬戸大橋(中央径間990m)
・1988年(昭和63) 岡山県倉敷市・香川県坂出市の下津井瀬戸大橋(中央径間940m)
・1988年(昭和63) 広島県尾道市・愛媛県今治市の大島大橋(中央径間560m)
・1993年(平成5) 東京都の東京港連絡橋<レインボーブリッジ>(中央径間570m)
・1998年(平成10) 兵庫県の明石海峡大橋(中央径間1,991m)
・1998年(平成10) 北海道室蘭市の白鳥大橋(中央径間720m)
・1999年(平成11) 愛媛県今治市の来島海峡第三大橋(中央径間1,030m)
・1999年(平成11) 愛媛県今治市の来島海峡第二大橋(中央径間1,020m)
・2000年(平成12) 広島県呉市の安芸灘大橋(中央径間750m)
・2008年(平成20) 広島県呉市の豊島大橋(中央径間540m)

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