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 今日は、戦国時代の1500年(明応9)に、第103代の天皇とされる後土御門天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月21日となります。
 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)は、1442年(嘉吉2年5月25日)に、京都において、後花園天皇の第1皇子(母は嘉楽門院信子)として生まれましたが、名は成仁(ふさひと)と言いました。後花園天皇には他に男子が生まれなかったので、生母を公卿・大炊御門家の養女にして、皇位継承者として定められ、1457年(長禄元年12月19日)に親王宣下されます。
 1461年(寛正2年)には、寛正の大飢饉が起こり、徳政一揆が起きるなど不安定な状況下、1464年(寛正5)に後花園天皇の譲位を受けて践祚し、翌年12月27日に第103代とされる天皇として即位しましたが、後花園上皇による院政が行われました。しかし、1467年(応仁元年5月)に応仁の乱が始まり、寺社や公卿の館は焼け、1467年(応仁元)には、戦乱のため室町第が仮御所となります。
 1470年(文明2)に後花園上皇による院政が終わり、親政が始まったものの、内大臣日野勝光・日野富子兄妹の専横や禁裏領荘園の押領などがあって、財政は窮迫して朝儀もままならなくなりました。
 1477年(文明9)には、応仁の乱が終わり、1479年(文明11)へ土御門内裏へ移りましたが、1485年(文明17)に山城の国一揆が起き、1493年(明応2)に細川政元が将軍足利義材を廃し、足利義澄を立てるクーデター(明応の政変)が起きるなど政情不安が続く中、1500年(明応9年9月28日)に、京都において、数え年59歳で亡くなっています。ところが、費用がなくて葬儀を行うことができず、内裏黒戸に遺骸を置くこと40余日、11月11日にようやく葬儀が執り行われました。
 尚在位中は、朝儀の維持存続を心がけ、有職故実の研究や儀式の習礼を廷臣に奨励、和歌・連歌に長じ、『紅塵灰集』、『いその玉藻』、『百日和歌詠草』などの歌集を残しています。

<代表的な歌>

・「誓ありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ」
・「ともすれば 道にまよへる 位山 うへなる身こそ くるしかりけれ」(後土御門院御集拾遺)

〇後土御門天皇の主要な著作

・歌集『紅塵灰集(こうじんかいしゅう)』
・歌集『いその玉藻』
・歌集『百日和歌詠草』

☆後土御門天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1442年(嘉吉2年5月25日) 京都において、後花園天皇の第1皇子(母は嘉楽門院信子)として生まれる
・1457年(長禄元年12月19日) 親王宣下される
・1461年(寛正2年) 寛正の大飢饉が起こる
・1464年(寛正5年7月19日) 後花園天皇の譲位を受けて践祚する
・1465年(寛正6年12月27日) 第103代とされる天皇として即位する
・1466年(文正元年末) 大嘗会を挙行する
・1467年(応仁元年5月) 応仁の乱が始まる
・1467年(応仁元年8月) 戦乱のため室町第が仮御所となる
・1470年(文明2年) 後花園上皇による院政が終わる
・1477年(文明9年11月) 応仁の乱が終わる
・1479年(文明11年) 土御門内裏へ移る
・1485年(文明17年12月) 山城の国一揆が起こる
・1493年(明応2年4月) 細川政元が将軍足利義材を廃し、足利義澄を立てるクーデター(明応の政変)が起こる 
・1500年(明応9年9月28日) 京都において、数え年59歳で亡くなる
・1500年(明応9年11月11日) 葬儀がとりおこなわれる