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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃した日です。
 西郷隆盛(さいごう たかもり)は、江戸時代後期の1828年(文政10年12月7日)に、薩摩国鹿児島城下加治屋町(現在の鹿児島県鹿児島市)で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれましたが、幼名は小吉、通称は吉之介と言いました。1844年(弘化元)に18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、1854年(安政元)に農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬に見出され、庭方役に抜擢され藩政に参画します。
 しかし、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、同志僧月照と投身自殺を試みたものの、一命を取り留め、翌年には奄美大島に流されました。1862年(文久2)に島津久光が公武合体運動の着手にあたり召還されたものの、久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島・沖永良部島へ遠島となります。
 1864年(元治元)に赦免され鹿児島に帰ると、軍賦役、小納戸頭取となり上京し、蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝しました。第一次長州征伐では、征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現します。
 1866年(慶応2)に土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約し、翌年の王政復古のクーデターに重要な役割を演じ、新政府参与となりました。戊辰戦争では大総督参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功します。
 その後、薩摩へ帰郷していましたが、1871年(明治4)には、呼び戻されて参議筆頭となり、廃藩置県に尽力したものの、1873年(明治6)の征韓論に関わる政変で辞職しました。鹿児島へ帰郷して私学校を経営し、士族授産に尽力しましたが、中央政府との疎隔が甚だしくなり、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など士族の反乱が続発します。
 その中で、1877年(明治10)に部下に擁立されて 、西南戦争を起しましたが、同年9月24日に戦いに敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃しました。

〇西郷隆盛関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政10年12月7日) 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれる
・1841年(天保12年) 元服し吉之介隆永と名乗る
・1844年(弘化元年) 18歳で郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめる
・1847年(弘化4年) 郷中の二才頭となる
・1851年(嘉永4年2月2日) 島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になる
・1852年(嘉永5年) 父母の勧めで伊集院兼寛の姉・須賀と結婚する
・1853年(嘉永6年2月) 家督相続を許可されたが、この頃に通称を吉之介から善兵衛に改める
・1854年(安政元年) 農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬にみいだされ、庭方役に抜擢される
・1855年(安政2年) 西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める
・1858年(安政5年) 斉彬が急死する
・1858年(安政5年11月) 同志僧月照と鹿児島湾に投身自殺を試みたが命を取り留める
・1859年(安政6年1月) 奄美大島に流される
・1862年(文久2年1月) 島津久光が公武合体運動着手にあたり召還され、大島三右衛門と改名する
・1862年(文久2年7月) 久光の怒りに触れ、今度は罪人として徳之島へ流される
・1862年(文久2年閏8月) さらに沖永良部島へ遠島となる
・1864年(元治元年2月28日) 赦免され鹿児島に帰る
・1864年(元治元年3月22日) 軍賦役、小納戸頭取となり上京し、伏見に着く
・1864年(元治元年7月18日) 蛤御門の変(禁門の変)で薩摩軍を指揮して快勝する
・1864年(元治元年7月23日) 長州藩追討の朝命が出る(第一次長州征伐)
・1864年(元治元年10月初旬) 御側役・代々小番に昇進、西郷吉之助と名のる
・1864年(元治元年10月12日) 第一次長州征伐において、征長軍の参謀に任じられる
・1864年(元治元年12月27日) 長州藩の無血降伏を実現し、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じる
・1865年(慶応元年1月中旬) 鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませる
・1866年(慶応2年1月21日) 土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介で、木戸孝允との間で薩長同盟を密約する
・1866年(慶応2年6月7日) 第二次長州征伐が始まる
・1867年(慶応3年5月21日) 中岡慎太郎の仲介で、土佐藩の乾退助、谷干城らと薩土討幕の密約を結ぶ
・1867年(慶応3年10月14日) 討幕の密勅が薩長両藩に降下したが、同日将軍慶喜は大政奉還を上表する
・1867年(慶応3年12月9日) 王政復古の大号令が発布される(王政復古のクーデター)
・1867年(慶応3年12月) 明治新政府の参与に任命される
・1868年(慶応4年1月3日) 京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦いで撃退する
・1868年(慶応4年2月) 戊辰戦争では東征大総督府参謀に就任する
・1868年(慶応4年3月) 勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功する
・1868年(慶応4年9月27日) 庄内藩討伐にあたり、降伏させたものの、寛大な処置をとる
・1869年(明治2年2月) 藩参政に就任、門閥打破、大規模常備軍の編成を柱に藩政改革を推進する
・1870年(明治3年7月3日) 太政官から鹿児島藩大参事に任命される
・1870年(明治3年暮れ) 鹿児島に下向した勅使岩倉具視に政府改革のいくつかの条件を認めさせる
・1871年(明治4年1月) 政府強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて上京する
・1871年(明治4年6月) 提案した御親兵の編成が成り、明治新政府の参議に就任する
・1871年(明治4年7月) 参議筆頭となり、廃藩置県に主導的役割を果たす
・1871年(明治4年11月) 岩倉使節団出発後、筆頭参議兼大蔵省御用掛として、急進的改革政策を指導する
・1872年(明治5年5月~7月) 明治天皇の中四国九州巡幸に随行する
・1872年(明治5年7月29日) 陸軍元帥兼参議に任命される
・1873年(明治6年)5月 朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生する
・1873年(明治6年)8月 閣議は西郷の要望をいれ朝鮮派遣使節に内定する
・1873年(明治6年)9月 太政大臣三条実美が、右大臣岩倉具視と共に、朝鮮派遣の延期を求めるが断る
・1873年(明治6年)10月15日 閣議で西郷の朝鮮派遣が正式に決定される
・1873年(明治6年)10月23日 西郷はこの処置に抗議の辞表を出す
・1873年(明治6年)10月24日 板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣も抗議辞職する(明治六年政変)
・1873年(明治6年)11月10日 帰郷引退し、鹿児島へ着く
・1874年(明治7年)2月 佐賀の乱が起きる
・1874年(明治7年)6月頃 県令・大山綱良の協力を得て、私学校がつくられる
・1876年(明治9年)10月24日 神風連の乱が起きる
・1876年(明治9年)10月27日 秋月の乱が起きる
・1876年(明治9年)10月28日 萩の乱が起きる
・1877年(明治10年) 私学校派士族が政府に挑発されて反乱(西南戦争)を起こすと、その先頭に立たされる
・1877年(明治10年)9月24日 西南戦争に敗れ、数え年51歳で、鹿児島城山において自刃する