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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の亡くなった日です。
 御木本幸吉(みきもと こうきち)は、江戸時代後期の1858年(安政5年1月25日)に、志摩国鳥羽浦の大里(現在の三重県鳥羽市)で代々うどんの製造・販売「阿波幸」を営む父・音吉、母・もとの長男として生まれましたが、幼名は吉松と言いました。幼いころから旧藩士や洋学者のもとへ勉学に通い、少年時代には青物行商などで生計を立てます。
 1878年(明治11)に家督を相続し、御木本幸吉と改名、海産物取引へと転換し、1880年(明治13)には鳥羽町会議員となりました。天然真珠の売買も行うようになり、29歳のときには英照皇太后の命により真珠を上納し、1889年(明治22)にアコヤガイ(真珠貝)の養殖に着手、翌年の第3回内国勧業博覧会にはアコヤガイや真珠を出品しています。
 1896年(明治29)に多徳島に真珠の養殖場を設け、1899年(明治32)に東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設、翌年のパリ博覧会に真珠を出品、箕作佳吉らの指導をうけ、1902年(明治26)に半円真珠、1914年(明治38)には真円真珠の養殖に成功しました。以後これを事業化して、1919年(大正8)にロンドン市場に売出し、1924年(大正13)には多額納税者として貴族院議員ともなります。
 1927年(昭和2年)にはニューヨーク支店開設、1929年(昭和4)にパリ支店を開設するなど、世界中に販路を拡張して、「真珠王(パールキング)」と呼ばれました。戦時中は政府に真珠養殖を禁じられたものの、1950年(昭和25)に再開、各地の博覧会などに出品します。
 世界に“ミキモト・パール”の名声を轟かしましたが、1954年(昭和29)9月21日に、96歳で亡くなっています。

〇御木本幸吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1858年(安政5年1月25日)志摩国鳥羽浦の大里で代々うどんの製造・販売「阿波幸」を営む父・音吉、母・もとの長男として生まれる
・1872年(明治5) 14歳で家業の傍ら青物の行商を始める
・1876年(明治9) 青物商から米穀商に転換する
・1878年(明治11) 家督を相続し、御木本幸吉と改名する
・1878年(明治11)3月 海産物商人へと転身する
・1880年(明治13) 鳥羽町会議員となる
・1881年(明治14) うめと結婚する
・1883年(明治16) 父・音吉が54歳で死去する
・1887年(明治20) 29歳のときに英照皇太后の命により真珠を上納する
・1888年(明治21)6月 第2回全国水産品評会のため上京する
・1889年(明治22) アコヤガイ(真珠貝)の養殖に着手する
・1890年(明治23) 第3回内国勧業博覧会にアコヤガイや真珠を出品する
・1896年(明治29)1月27日 半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知される
・1896年(明治29)4月21日 妻・うめが32歳で死去する
・1896年(明治29) 多徳島に真珠の養殖場を設ける
・1899年(明治32) 東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設する
・1900年(明治33) パリ博覧会に真珠を出品する
・1901年(明治34) 東京・銀座の元数寄屋町に御木本真珠店を移転する
・1902年(明治26) 半円真珠の養殖に成功する、
・1903年(明治36) 東京・銀座四丁目に御木本真珠店進出、市川源次郎金細工工場を御木本下請け工場として、京橋区築地に移転する
・1903年(明治36) 市川源次郎金細工工場を買収し御木本金細工工場とする
・1914年(明治38) 真円真珠の養殖に成功する
・1916年(大正5) 真珠素質被着法の特許(第3002号)を取得する
・1916年(大正5) 中国視察にでかけ、上海支店を開設する
・1919年(大正8) ロンドン市場に売出す
・1924年(大正13) 多額納税者として貴族院議員となる
・1927年(昭和2) ニューヨーク支店を開設する
・1928年(昭和3) ロンドンのリーゼント街に小売店を開店する
・1929年(昭和4) パリ支店を開設する
・1931年(昭和6) ロサンゼルス支店を開設する
・1933年(昭和8) シカゴ支店を開設する
・1949年(昭和24) 真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞を受賞する
・1950年(昭和25) 戦時中禁止されていた真珠の養殖を再開する
・1954年(昭和29)9月21日 96歳で亡くなる