mukaikyorai01

 今日は、江戸時代中期の1704年(宝永元)に、俳人(蕉門十哲の一人)向井去来の亡くなった日ですが、新暦では10月8日となります。
 向井去来(むかい きょらい)は、1651年(慶安4)に、肥前国長崎(現在の長崎市興善町)で、儒医向井元升の次男として生まれましたが、名は兼時、字は元淵(もとひろ)と言いました。1658年(万治元)に父に伴われて京都に移住しましたが、のち福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学びます。
 しかし、結局仕官せず、1675年(延宝3)頃に武を捨てて京都に戻り、1677年(延宝5)に没した父を継いで典薬となった兄元端を助け、公家に出入りして神道家、陰陽家として天文や暦のことに携わりました。貞享年間 (1684~88年) 頃に、榎本其角を介してくげ松尾芭蕉に入門、嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に隠棲して、俳諧に専心します。
 1689年(元禄2)に、近畿滞在中の芭蕉を落柿舎に招き、1691年(元禄4)の夏には、芭蕉の宿舎として提供、ここで『嵯峨日記』が執筆されました。同年、芭蕉の指導のもとで野沢凡兆と共に『猿蓑』を編纂し、蕉風を代表する撰集となります。
 1694年(元禄7)の芭蕉没後は、蕉風の忠実な伝え手として、其角や森川許六と論争し、『俳諧問答青根が峰』、『去来抄』、『旅寝論』など重要な蕉風俳論を執筆したものの、1704年(宝永元年9月10日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。のちに、蕉門十哲の一人と言われるようになります。

<代表的な句>

・「秋風や 白木の弓に 弦はらん」
・「湖の水 まさりけり 五月雨」
・「をととひは あの山越つ 花盛り」
・「尾頭の こころもとなき 海鼠哉」
・「螢火や 吹とばされて 鳰の闇」
・「鳶の羽も 刷ぬ はつしぐれ」
・「応々と いへど敲くや 雪の門」
・「岩鼻や ここにもひとり 月の客」(去来抄)

〇向井去来の主要な著作

・『猿蓑』(1691年)野沢凡兆との共編
・『贈其角先生書』
・『答許子問難弁』
・『俳諧問答青根が峰』
・『去来抄』
・『旅寝論』