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 今日は、江戸時代後期の1828年(文政11)に、越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の生まれた日ですが、新暦では10月10日となります。
 松平慶永(まつだいら よしなが)は、江戸城内の田安屋敷において、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男(母はお連以の方)として生まれましたが、幼名は錦之丞と言いました。1838年(天保9)11歳のとき、越前家松平斉善の嗣子となり、第16代藩越前藩主を襲封、同年に元服し、慶永と名乗ります。
 翌年より、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出し、藩財政改革に着手しました。有能な人材を門閥にとらわれず登用、1840年(天保11)に旧守派の中心であった家老・松平主馬を罷免し、以後は中根雪江や由利公正、橋本左内らの補佐を受け、翻訳機関洋学所の設置や軍制改革などを実施します。
 殖産興業に成功し、種痘など洋式技術の導入にも努めるなど、開明的な政策によって名君と称されるようになりました。1853年(嘉永6)のペリー来航の際には、攘夷論を提唱、条約無断調印に反対ましたが、開国派に転じます。
 第13代将軍・徳川家定の継嗣問題において、一橋慶喜を推して大老井伊直弼と対立し、安政の大獄では謹慎処分を受け、松平茂昭に家督を譲っていったんは政界を離れ、春嶽(しゅんがく)の号を多用するようになりました。しかし、1860年(万延元)の桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されると、1862年(文久2)に幕政への参加を許されることとなります。
 そして、慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられ、幕政の指導的地位に立ちました。中江雪江・横井小楠を用いて、参勤交代の旧習を緩和するなどの幕政改革に着手、公武合体を主張します。
 ところが、尊王攘夷運動の台頭によってその構想はついえ、翌年には政事総裁職を辞任することとなりました。1867年(慶応3)には、山内容堂らと将軍慶喜に大政奉還を進言、王政復古後は、幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力します。
 明治新政府では、議定、内国事務総督、民部卿・大蔵卿を歴任しましたが、1870年(明治3)にはすべての公職から退きました。その後は、文筆生活に入り、『逸事史補』など多くを著しましたが、1890年(明治23)6月2日、東京において、61歳で病没しています。

〇松平慶永(春嶽)関係略年表(日付は明治5年までは旧暦です)

・1828年(文政11年9月2日) 田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男(母はお連以の方)として生まれる
・1838年(天保9年9月4日) 越前家松平斉善の嗣子となり、第16代藩越前藩主を襲封、従四位上・左近衛権少将に叙任される
・1838年(天保9年12月11日) 元服して慶永と名乗り、正四位下に昇叙し、越前守を兼任する
・1839年(天保10年2月) 全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出す、
・1840年(天保11年1月) 旧守派の中心であった家老・松平主馬を罷免する
・1851年(嘉永4年12月16日) 左近衛権中将に転任する
・1853年(嘉永6年) ペリー来航の際には、攘夷論を提唱、条約無断調印に反対する
・1858年(安政5年7月5日) 井伊直弼により、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受ける
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺される
・1862年(文久2年7月9日) 幕政への参加を許され、新設の政事総裁職に就任する
・1863年(文久3年3月25日) 逼塞処分および政事総裁職を罷免される
・1864年(元治元年2月16日) 越前守を去り大蔵大輔を兼任する
・1864年(元治元年4月11日) 正四位上に昇叙し、参議に補任される
・1867年(慶応3年12月8日) 新政府の議定に補任される
・1868年(慶応4年1月17日) 新政府の内国事務総督を兼帯する
・1868年(慶応4年2月20日) 内国事務局輔に異動する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 内国事務局が廃官される
・1868年(慶応4年6月27日) 従二位に昇叙し、権中納言に転任する
・1869年(明治2年5月15日) 議定から民部官知事に異動する
・1869年(明治2年7月8日) 民部卿に異動する
・1869年(明治2年8月11日) 大蔵卿を兼任する
・1869年(明治2年8月24日) 大学別当・侍読に異動する
・1869年(明治2年9月26日) 正二位に昇叙する
・1870年(明治3年7月13日) 大学別当と侍読を辞任、いっさいの公職から退き、麝香間祗候となる
・1881年(明治14年)7月16日 勲二等に叙せられ、旭日重光章を受章する
・1888年(明治21年)9月7日 従一位に昇叙する
・1889年(明治22年)6月3日 勲一等に昇叙し、旭日大綬章を受章する
・1890年(明治23年)6月2日 東京において、61歳で病没する