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 今日は、1939年(昭和9)に、閣議決定によって「興亜奉公日」が始まった日です。
 興亜奉公日(こうあほうこうび)は、国民精神総動員運動の一環として、国力増強・戦意高揚を意図して、1939年(昭和14)9月から1942年(昭和17)1月まで、毎月1日に実施された生活規制でした。近衛内閣に代わった平沼騏一郎内閣は、1939年(昭和14)2月に国民精神総動員運動を「官民一体ノ挙国実践運動」として強化する方針を打ち出し、同年8月8日の閣議決定により、11日に内閣告諭で定められ、「全國民ハ擧ツテ戰場ノ勞苦ヲ偲ビ自肅自省之ヲ實際生活ノ上ニ具現スルト共ニ興亞ノ大業ヲ翼贊シテ一億一心奉公ノ誠ヲ効シ強力日本建設ニ向ツテ邁進シ以テ恆久實踐ノ源泉タラシムル日トナスモノトス」という趣旨の下に実施されます。
 精動委員長荒木貞夫文相のもとで、この日は、国旗掲揚、宮城遥拝、神社参拝、勤労奉仕などが実施され、禁酒禁煙、一汁一菜、飲食・接客業休業等が義務づけられ、児童生徒の弁当は日の丸弁当とされました。生徒には、「戦地の兵隊さんに感謝し、其の労苦をしのびつゝ、自分で自分の心をうんと引きしめて、銃後の護りをますます固め、以て、大政に翼賛し、新東亜建設に力を尽くすことを一層強化する日である。」と説明されます。
 さらに、1940年(昭和15)に「奢侈品製造販売禁止令(七・七禁令)」が出されると、同年8月1日の「興亜奉公日」には、「ぜいたくは敵だ」の立看板をかかげて街頭に進出したように、国民に耐乏生活を強いるものとなりました。
 当初の閣議決定では、事変が続く間はこれを継続すると定められていましたが、1942年(昭和17)1月2日の閣議で、毎月8日が「大詔奉戴日」に設定されると、「興亜奉公日」はそれに発展的に統一され、廃止となります。

〇国民精神総動員運動とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。
 8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。
 最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。
 同年8月には「興亜奉公日」(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。

〇「奢侈品(しやしひん)製造販売禁止令(七・七禁令)」とは?

 当時の商工省(現在の経済産業省)及び農林省(現在の農林水産省)が「国家総動員法」を根拠に、1940年(昭和15)7月6日に発布(昭和15年商工省・農林省令第2号)し、翌7月7日より施行した省令です。
 不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止するもので、一般には施行日をとって「七・七禁令」(しちしちきんれい)とも呼ばれました。戦時下に於いては、不要不急な生活用品よりも戦争必需品を優先に製造せよということで、例えば金銀を使う織物(西陣織り・友禅など)、宝石類、そして一定金額以上の娯楽関係品(人形・レコード)、カメラ、シャープペンシル、果物(メロン・イチゴ)などが対象となったのです。「ゼイタクは敵だ」がスローガンとして叫ばれ、製造・販売の面でも国民生活が統制されていくことになりました。