ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年08月

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 明治時代前期の1877年(明治10)に、東京上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会された日です。
 内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)は、明治政府が殖産興業政策の一環として開催した国内生産物の博覧会で、明治時代に5回開催されました。第1回は、1877年(明治10)8月21日~11月30日の102日間、東京の上野公園で開催され、454,168人が入場し、経費122,410円かかっています。
 この博覧会は、1873年(明治6)のオーストリアのウィーン、1876年(明治9)のアメリカのフィラデルフィアなど海外の万国博覧会への参加経験によって、政府や識者に産業振興への博覧会の効用を考えさせ、内務卿大久保利通の建議によって開催の運びとなりました。農商務省が主管し、鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6分野において、14,455点が出品され、優秀作には賞牌や褒状が授与されています。
 その後、1881年(明治14年)に第2回(於:東京上野公園・入場者822,395人)、1890年(明治23年)に第3回(東京上野公園・入場者1,023,693人)、1895年(明治28年)に第4回(京都岡崎公園・入場者1,136,695人)、1903年(明治36年)に第5回(大阪天王寺今宮・入場者5,305,209人)と開催されて終了しました。
 これに刺激されて愛知県博覧会(1878年)、三重県博覧会(1880年)、宮城県博覧会(1880年)、京都府博覧会(1882~83年)などの地方博覧会が相次いで開催され、1884年(明治17)には2府5県で13件、1885年(明治18)には2府6県で9件の博覧会が行われています。

〇内国勧業博覧会一覧

・【第1回】1877年(明治10年)8月21日~11月30日(102日間)
 於:東京・上野公園―入場者454,168人、出品数14,455点、経費122,410円
・【第2回】1881年(明治14年)3月1日~6月30日(122日間)
 於:東京・上野公園―入場者822,395人、出品数85,366点、経費276,350円
・【第3回】1890年(明治23年)4月1日~7月31日(122日間)
 於:東京・上野公園―入場者1,023,693人、出品数167,066点、経費566,500円
・【第4回】1895年(明治28年)4月1日~7月31日(122日間)
 於:京都・岡崎公園―入場者1,136,695人、出品数169,098点、経費443,303円
・【第5回】1903年(明治36年)3月1日~7月31日(153日間)
 於:大阪・天王寺今宮―入場者5,305,209人、出品数276,719点、経費1,093,973円

☆「第1回内国勧業博覧会開催」の新聞記事

明治十年八月二十二日付
次に博覧会場の概略を挙げんには、先づ美術館を中央とし、右に連なるは農業館と東本館にて、左に園芸館、機械館と西本館なり。其他動物館迄の設けありて、天造人造の諸品余さず漏さず此覧場に集められしは、実に国家の進歩を卜すべき者にして目出度かりし景況は、拙き筆には書き尽すべくもあらねば、只かくばらりになん。(中略)さしも広き公園中に群集したる都鄙遠近の見物人は、錐を立るの地も残さず、午後より場中を縦覧せしものは幾万人なるを知らずといふ。又夜に入り不忍池にて挙げられたる花火は、涼みがてらの見物ゆゑ、昼にも劣らぬ雑沓なりしに、曇りの空の晴れざりしは、花火のためには却って一層の美観なりき。公園内の茶屋茶屋を始め、近傍の雁鍋其他の料理店には、人の充満せざる所なし。これらはよろしく押測り給へ。

    『明治新聞史料集成』 より

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 今日は、江戸時代前期の1610年(慶長15)に、武将・大名・歌人細川幽斎(藤孝)の亡くなった日ですが、新暦では10月6日となります。
 細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)は、1534年(天文3年4月22日)に、京都東山において足利幕臣三淵晴員(はるかず)の次男(母は清原宣賢の娘)として生まれましたが、幼名は萬吉(まんきち)と言いました。1539年(天文8)に室町幕府第12代将軍足利義晴の命で和泉半国守護家の細川元常の養子となり、1546年(天文15)に義晴の子義藤(義輝)より諱の1字をもらって藤孝と名乗ります。
 義晴、義藤が京都での戦乱を避けて近江に亡命した際これに同行しました。1552年(天文21)には、従五位下・兵部大輔に叙任され、1554年(天文23)に元常の死により細川家の家督を相続しました。1565年(永禄8)に、第13代将軍義輝が暗殺されると、義輝の弟一条院覚慶(義昭)を大和興福寺より救出して近江甲賀郡へ導き、若狭武田氏、越前朝倉氏らを頼って流浪します。
 1568年(永禄11)に織田信長が義明を奉じて入京すると、藤孝もこれに従い、1573年(天正元)に信長から山城国長岡の地を与えられ長岡姓を称しました。山城淀城の戦い、高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、信貴山城の戦いなどの武功により、1580年(天正8)に信長から丹後半国の領有を認められ、丹後国宮津を居城とします。
 明智光秀の与力としても活躍しましたが、1582年(天正10)の本能寺の変では、光秀の誘いを断り、剃髪し幽斎玄旨と称し、嫡子忠興に家督を譲って丹後田辺城に隠居しました。1586年(天正14)に豊臣秀吉より西岡に3,000石を与えられ、九州攻め、小田原攻めにも参加、文禄の役では肥前名護屋、薩摩などに赴いています。
 一方で、和歌を三条西実枝に学んで古今伝授を受け、有職故実、書道、茶道にも通じた文化人としても知られました。1600年(慶長5)には、徳川家康方についたため、西軍に攻められて、籠城の末に田辺城を明け渡しましたが、子の忠興は関ヶ原の戦いにおいて武功を上げ、豊前小倉藩39万9,000石の大封を得ています。
 その後、京都吉田で悠々自適な晩年を送りましたが、1610年(慶長15年8月20日)に、京都三条車屋町の自邸において、数え年77歳で亡くなりました。

〇細川幽斎の主要な著作

・歌学書『詠歌大概抄(たいがいしょう)』(1586年)
・紀行『九州道の記』(1587年)
・紀行『東国陣道の記』(1590年)
・歌学書『百人一首抄』
・歌学書『聞書全集』
・歌学書『耳底(じてい)記』
・歌学書『伊勢(いせ)物語闕疑抄(けつぎしょう)』
・歌集『衆妙(しゅうみょう)集』
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 今日は、江戸時代前期の1680年(延宝8)に、第108代の天皇とされる後水尾天皇の亡くなった日ですが、新暦では9月11日となります。
 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、安土桃山時代の1596年(文禄5年6月4日)に、京都において後陽成天皇の第3皇子(母は藤原前子)として生まれましたが、幼称は三宮(名は政仁)と言いました。1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。
 しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
 紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
 その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
 仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。

〇後水尾天皇の主要な著作

・歌集『鴎巣(おうそう)集』
・『当時年中行事』
・『伊勢物語御抄』

☆紫衣事件とは?

 江戸幕府の朝廷統制圧迫の政策を示す事件で、朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効としたものでした。
 江戸幕府は、1613年(慶長18)に、「紫衣着用の際はあらかじめ知らせること」という『勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度』を出します。さらに、2年後の1615年(慶長20)には『禁中並公家諸法度』を定めて、その16条で「一紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。」としていました。
 しかし、この頃は勅許による収入が朝廷の重要な財源となっていたこともあり、1626年(寛永3)に後水尾天皇はこれまでの慣例どおり、幕府に相談なく、大徳寺・妙心寺等の僧十数人に紫衣着用を許可します。江戸幕府は翌年に、事前に勅許の相談のなかったことは法度違反とし、多くの勅許状の無効を宣言し、紫衣を取り上げるよう命じました。
 大徳寺住職の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩や妙心寺単伝士印、東源慧等らの高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出して服従せず、江戸幕府は、1629年(寛永6年7月25日)に沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流の刑に処します。その上、1615年(元和元)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪しました。また、同年11月8日の後水尾天皇の退位に繋がったと言われています。
 その後、1632年(寛永9)に、徳川秀忠(第2代将軍)の死去に際して、大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許されました。1641年(寛永18)には、事件の発端となった大徳寺と妙心寺の寺法旧復が第3代将軍徳川家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も復されています。
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 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
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 今日は、江戸時代中期の1691年(元禄4)に、経世家・陽明学者熊沢蕃山の亡くなった日ですが、新暦では9月9日となります。
 熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、江戸時代前期の1619年(元和5)に、京都稲荷(現在の京都府京都市下京区)の加藤家浪人であった父・野尻藤兵衛一利、母・亀女の長男として生まれましたが、名は伯継(しげつぐ)と言いました。
 8歳の時に常陸国水戸に行き、母方の祖父である熊沢守久の養子となって、熊沢姓を名乗ることとなります。1634年(寛永11)に岡山藩主池田光政に近習として仕えましたが、4年で辞し、祖母の里である近江国小川村(現在の滋賀県高島市)に帰り、学問を志して、1642年(寛永19)に中江藤樹に入門し、陽明学を学びました。
 1645年(正保2)に再び岡山藩に仕え、光政側近として活躍、零細農民の救済、治山・治水等の土木事業、農業政策などで治績をあげ、番頭3,000石にまでなったものの、1657年(明暦3)に致仕し、隠退します。1658年(万治元)に京都に移って私塾を開き、講学・著述に従事しましたが、1667年(寛文7)に京都追放処分を受け、大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れました。
 1669年(寛文9)には、幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなり、太山寺(現在の神戸市西区)に幽閉されます。その後は著述に専念し、『集義和書』(1672年)、『集義外書』(1679年)などを著し、信之の転封に従って大和郡山へと移りました。
 1687年(貞享4)に『大学或問』等による幕政批判のため幕府に疎まれ、下総古河(現在の茨城県古河市)に幽囚の身となり、1691年(元禄4年8月17日)に古河城内において、数え年73歳で亡くなっています。

〇熊沢蕃山の主要な著作

・『大和西銘(やまとせいめい)』(1650年)
・『集義和書』(1672年)
・『集義外書』(1709年)
・意見書『大学或問(わくもん)』2巻(1686年)
・『易緊辞伝』
・『源氏外伝』(源氏物語の注釈書)
・『水土解』
・『論語小解』
・『三輪物語』
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