光孝天皇(こうこうてんのう)は、830年(天長7)に第54代の天皇とされる仁明天皇の第三皇子(母は藤原総継の娘)として生まれましたが、諱は時康(ときやす)と言いました。836年(承和3)に四品に叙品され、843年(承和10)に16歳で元服します。
848年(嘉祥元)に常陸太守となり、851年(仁寿元)に三品に昇叙、856年(斉衡3)に上野太守となり、866年(貞観8)に大宰帥となり、870年(貞観12)には二品に昇叙しました。882年(元慶6)には、一品に昇叙していましたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、884年(元慶8年3月5日)に藤原基経(もとつね)の推挙により、55歳という高齢で第58代とされる天皇として即位します。
以後天皇は、政治を基経を経て奏上させ、これが関白の初めとされるようになりました。在位3年で病気となり、再び基経の協力を得て、臣籍に下っていた第7皇子の源定省(のちの宇多天皇)を親王に復し、皇太子に立てます。
しかし、887年(仁和3年8月26日)に、京都において数え年58歳で亡くなっています。尚、和歌・和琴などに秀でたとされ、『古今和歌集』に歌2首が収められ、後に「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」が『小倉百人一首』に採られました。
〇光孝天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・830年(天長7年) 仁明天皇の第三皇子(母は藤原総継の娘)として生誕する
・836年(承和3年1月7日) 四品に叙品される
・843年(承和10年2月2日) 元服する
・848年(嘉祥元年1月13日) 常陸太守に任官する
・850年(嘉祥3年5月17日) 中務卿を兼任する
・851年(仁寿元年11月21日) 三品に昇叙する
・853年(仁寿3年) 常陸太守を止める
・856年(斉衡3年6月) 上野太守を兼任。
・860年(貞観2年1月15日) 上野太守を止める
・864年(貞観6年) 上野太守を兼任する
・866年(貞観8年1月13日) 上野太守を止め、大宰帥を兼任する
・870年(貞観12年2月7日) 二品に昇叙する
・871年(貞観13年1月28日) 大宰帥を止める
・873年(貞観15年1月13日) 上野太守を兼任する
・876年(貞観18年12月26日) 中務卿を止め、式部卿を兼任する
・877年(元慶元年10月17日) 上野太守を止める
・880年(元慶4年1月11日) 常陸太守を兼任する
・882年(元慶6年1月7日) 一品に昇叙する
・884年(元慶8年1月11日) 大宰帥を兼帯する
・884年(元慶8年3月5日) 第58代とされる天皇として即位する
・887年(仁和3年8月26日) 京都において、数え年58歳で亡くなる