ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年08月

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 今日は、平安時代前期の887年(仁和3)に、第58代の天皇とされる光孝天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月17日となります。
 光孝天皇(こうこうてんのう)は、830年(天長7)に第54代の天皇とされる仁明天皇の第三皇子(母は藤原総継の娘)として生まれましたが、諱は時康(ときやす)と言いました。836年(承和3)に四品に叙品され、843年(承和10)に16歳で元服します。
 848年(嘉祥元)に常陸太守となり、851年(仁寿元)に三品に昇叙、856年(斉衡3)に上野太守となり、866年(貞観8)に大宰帥となり、870年(貞観12)には二品に昇叙しました。882年(元慶6)には、一品に昇叙していましたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、884年(元慶8年3月5日)に藤原基経(もとつね)の推挙により、55歳という高齢で第58代とされる天皇として即位します。
 以後天皇は、政治を基経を経て奏上させ、これが関白の初めとされるようになりました。在位3年で病気となり、再び基経の協力を得て、臣籍に下っていた第7皇子の源定省(のちの宇多天皇)を親王に復し、皇太子に立てます。
 しかし、887年(仁和3年8月26日)に、京都において数え年58歳で亡くなっています。尚、和歌・和琴などに秀でたとされ、『古今和歌集』に歌2首が収められ、後に「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」が『小倉百人一首』に採られました。

〇光孝天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・830年(天長7年) 仁明天皇の第三皇子(母は藤原総継の娘)として生誕する
・836年(承和3年1月7日) 四品に叙品される
・843年(承和10年2月2日) 元服する
・848年(嘉祥元年1月13日) 常陸太守に任官する
・850年(嘉祥3年5月17日) 中務卿を兼任する
・851年(仁寿元年11月21日) 三品に昇叙する
・853年(仁寿3年) 常陸太守を止める
・856年(斉衡3年6月) 上野太守を兼任。
・860年(貞観2年1月15日) 上野太守を止める
・864年(貞観6年) 上野太守を兼任する
・866年(貞観8年1月13日) 上野太守を止め、大宰帥を兼任する
・870年(貞観12年2月7日) 二品に昇叙する
・871年(貞観13年1月28日) 大宰帥を止める
・873年(貞観15年1月13日) 上野太守を兼任する
・876年(貞観18年12月26日) 中務卿を止め、式部卿を兼任する
・877年(元慶元年10月17日) 上野太守を止める
・880年(元慶4年1月11日) 常陸太守を兼任する
・882年(元慶6年1月7日) 一品に昇叙する
・884年(元慶8年1月11日) 大宰帥を兼帯する
・884年(元慶8年3月5日) 第58代とされる天皇として即位する
・887年(仁和3年8月26日) 京都において、数え年58歳で亡くなる
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 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港した日で、「東京国際空港開港記念日」ともされています。
 東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう)は、東京都大田区羽田空港にある日本最大の国際空港で、通称「羽田空港」とも呼ばれてきました。
 多摩川河口の三角州に国営(逓信省管轄)の羽田飛行場(面積53ha)として開設され、コンクリート製の滑走路(全長300m、幅15m)が設けられています。1933年(昭和8)には立川飛行場の民間航空部門が移駐し、大阪、福岡、台北、京城などの国内主要都市に向けた国内線のほか、満州国や中華民国、タイ王国やフランス領インドシナへ向けた国際線も運航されました。1938年(昭和13)にルフトハンザドイツ航空がベルリンとを結び、翌年には国産航空機として初の世界一周飛行に挑んだ「ニッポン号」の発着地ともなっています。
 太平洋戦争後は、連合国最高司令官総司令部(GHQ)に接収されましたが、1952年(昭和27)に返還され、名称も東京国際空港と改められ、運輸省(現在の国土交通省)の所管となりました。都心とは高速道路、モノレールで結ばれるようになり、1964年(昭和39)にC滑走路(3150m)を新設、1971年(昭和46)にB滑走路を延長(1650m→2500m)しています。
 しかし、発着容量の限界を迎え、1978年(昭和53)に国際線のほぼすべてが新東京国際空港(現在の成田国際空港)に移りました。その後も国内線の発着が増えたことにより、1983年(昭和58)に策定された「東京国際空港整備計画」にもとづき、翌年から沖合展開事業に着手します。
 それにより、1988年(昭和63)に新A滑走路(3000m)の供用が始まり、1993年(平成5)に新旅客ターミナル(愛称ビッグバード)が完成、さらに 1997年(平成9)に新C滑走路(3000m)、2000年(平成12)に新B滑走路(2500m)が供用を開始しました。2004年(平成16)には第2旅客ターミナルなどが完成したものの、さらなる需要の増大に対応するため再拡張・国際化事業が展開され、2010年(平成22)にD滑走路(2500m)と国際線ターミナルの供用を開始しています。
 これによって、国際便の就航が相次ぎ、ハブ空港としての体制が整備され、成田国際空港との競合性が高まってきました。

〇東京国際空港関係略年表

・1931年(昭和6)8月25日 日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用飛行場として東京飛行場(羽田飛行場)が正式に開港する
・1931年(昭和6)9月25日 初の税関設置飛行場に指定される
・1932年(昭和7) 気象台羽田出張所が開設されて航空気象観測が行われるようになる
・1933年(昭和8) 立川飛行場の民間航空部門が移駐してくる
・1937年(昭和12)5月 欧亜連絡飛行を行った「神風号」の帰着地となる
・1938年(昭和13) ルフトハンザドイツ航空のフォッケウルフ・Fw200コンドルがベルリンと羽田の間を結ぶ
・1939年(昭和14)8月 国産航空機として初の世界一周飛行に挑んだ「ニッポン号」の発着地となる
・1939年(昭和14) ルフトハンザドイツ航空のユンカースJu 52が、ベルリンと羽田の間を結ぶ
・1945年(昭和20) 連合国最高司令官総司令部(GHQ)に接収される
・1952年(昭和27) 米国から大部分が返還され、名称も東京国際空港と改められ、運輸省の所管となる
・1953年(昭和28) 日本空港ビルデング株式会社が設立される
・1955年(昭和30)5月 ターミナルが開館し供用開始する
・1958年(昭和33) 米国から全面返還される
・1962年(昭和37)8月 国産旅客機YS-11が初飛行する
・1963年(昭和38)7月 ターミナル本館増改築工事のうち国際線部分が供用開始する
・1964年(昭和39)4月 日本人の海外渡航が自由化される
・1964年(昭和39)9月 国内線到着専用ターミナルが供用開始する
・1964年(昭和39) C滑走路(3150m)を新設する
・1964年(昭和39)9月 浜松町~羽田空港間の東京モノレールが開通する
・1970年(昭和45)6月 新国際線到着ターミナルが供用開始する
・1971年(昭和46) B滑走路を延長(1650m→2500m)する
・1972年(昭和47)5月 成田国際空港開港に伴い、国際線航空会社(チャイナエアライン除く)が成田へ移転する
・1972年(昭和47)7月 国内線転用工事が竣工する
・1983年(昭和58) 「東京国際空港整備計画」が策定される
・1984年(昭和59) 沖合展開事業に着手する
・1988年(昭和63)4月 ターミナル再整備工事が竣工する
・1988年(昭和63)7月 新A滑走路(3000m)が供用開始する
・1993年(平成5)9月 第1旅客ターミナルが供用開始する
・1996年(平成8)1月 第1旅客ターミナル利用の旅客数が通算1億人達成する
・1997年(平成9)3月 新C滑走路(3000m)が供用開始する
・1997年(平成9)10月 ボーディングステーションが供用開始する
・1998年(平成10)3月 暫定国際線旅客ターミナルが供用開始する
・1998年(平成10)11月 京急空港線が延伸され、第1旅客ターミナルに直接乗り入れ開始する
・1998年(平成10)12月 国内線旅客数が年間5,000万人達成する
・2000年(平成12)3月 新B滑走路(2500m)が供用開始する
・2001年(平成13)2月 国際旅客チャーター便が運航開始する
・2002年(平成14)4月 チャイナ エアラインとエバー航空の成田移転に伴い、国際定期便が終了する
・2002年(平成14)4月 暫定国際線旅客ターミナル⇔第1旅客ターミナル間の無料連絡バスを運行開始する
・2002年(平成14)5月 暫定国際線旅客ターミナル増改築工事が竣工する
・2002年(平成14)12月 国内線旅客数が年間6,000万人達成する
・2003年(平成15)8月 エアポートコンシェルジェを配置する
・2003年(平成15)11月 ソウル(金浦)を結ぶ国際旅客チャーター便が運航開始する
・2004年(平成16)12月 第2旅客ターミナルが供用開始する
・2004年(平成16)12月 第1旅客ターミナルリニューアル工事を開始する
・2006年(平成18)6月 「東京国際空港ターミナル株式会社」が設立される
・2007年(平成19)2月 第2旅客ターミナル南ピアが供用開始する
・2007年(平成19)9月 上海(虹橋)を結ぶ国際旅客チャーター便が運航開始する
・2007年(平成19)12月 P4簡易立体駐車場が供用開始する
・2008年(平成20)4月 香港を結ぶ国際旅客チャーター便が運航開始する
・2008年(平成20)7月 新国際線旅客ターミナル増改築工事に着手する
・2008年(平成20)12月 第2旅客ターミナル本館南側拡張部分を着工する
・2009年(平成21)3月 P4駐車場本格立体化その他工事に着手する
・2009年(平成21)10月 羽田⇔北京国際旅客チャーター便が就航する
・2010年(平成22)8月 P4本格立体駐車場が供用開始する
・2010年(平成22)8月 新国際線旅客ターミナルが竣工する
・2010年(平成22)8月 第2旅客ターミナル本館南側拡張部分が竣工する
・2010年(平成22)10月 第2旅客ターミナル本館南側拡張部分が供用開始する
・2010年(平成22)10月 D滑走路(2500m)と新国際線旅客ターミナルが供用開始する
・2011年(平成23)11月 第1旅客ターミナル出発エリア・屋上エリアをリニューアルする
・2013年(平成25)4月 第2旅客ターミナル南ピア3スポットを増設する
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、日本を代表する映画監督溝口健二の亡くなった日です。
 溝口健二(みぞぐち けんじ)は、明治時代後期の1898年(明治31)5月16日に、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)で、父・溝口善太郎と母・まさの長男として生まれました。小学校卒業後、美術修行や新聞社勤務などを経て、1920年(大正9)に日活向島撮影所に助監督として入社します。
 1923年(大正12)に、『愛に甦へる日』で監督に昇進すると、現代劇や探偵劇など新たなジャンルの創出に参画しました。関東大震災後、京都の日活大将軍撮影所に移り、『紙人形春の囁き』(1926年)などで下町情緒を描き、評価されるようになります。
 1929年(昭和4)の世界恐慌後は、傾向映画の『都会交響楽』(1929年)やトーキーの『ふるさと』(1930年)を撮るなど新たなチャレンジもしました。1934年(昭和9)に、独立プロダクション第一映画に入って『浪華悲歌』(1936年)と『祇園の姉妹』(1936年)を製作、徹底したリアリズムによって名声を高めます。
 太平洋戦争中は、『元禄忠臣蔵』(1941~42年)などの歴史ものを作りました。戦後は低迷期を経て、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)がベネチア映画祭で3年連続受賞し、海外での評価も一気に高まり、ヌーベル・バーグの監督をはじめ、多くの信奉者を得ます。
 徹底したリアリズムによる作風、カメラを長回しする「ワンシーン・ワンカット」の技法によっても知られましたが、1956年(昭和31)8月24日に、京都市内の病院において、58歳で亡くなりました。

〇溝口健二監督の主要な映画作品一覧

・『愛に甦へる日』(1923年)
・『紙人形春の囁き』(1926年)
・『都会交響楽』(1929年)
・『唐人お吉』(1930年)
・『ふるさと』(1930年)
・『滝の白糸』(1933年)
・『浪華悲歌』(1936年)
・『祇園の姉妹』(1936年)
・『残菊物語』(1939年)
・『芸道一代男』(1941年)
・『浪花女』(1940年)
・『元禄忠臣蔵』(1941~42年)
・『夜の女たち』(1948年)
・『お遊(ゆう)さま』(1951年)
・『武蔵野夫人』(1951年)
・『西鶴一代女』(1952年)ベネチア国際映画祭国際賞受賞
・『祇園囃子』(1953年)
・『雨月物語』(1953年)ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞1位受賞
・『山椒太夫』(1954年)ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞4位受賞
・『近松物語』(1954年)芸術選奨、ブルーリボン賞(監督賞)受賞
・『楊貴妃(ようきひ)』(1955年)
・『赤線地帯』(1956年)
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 今日は、昭和時代前期の1942年(昭和17)に、日本画家竹内栖鳳の亡くなった日です。
 竹内栖鳳(たけうち せいほう)は、江戸時代末期の1864年(元治元年11月22日)に、京都御池通油小路(現在の京都府京都市中京区)で、川魚料理屋「亀政」の一人息子として生まれましたが、本名は恒吉と言いました。幼い頃から絵に親しみ、14歳で土田英林の手ほどきを受け、1881年(明治14)から四条派の幸野楳嶺に師事し、棲鳳と号するようになります。
 翌年の第1回内国絵画共進会に出品した『雁に双鶴』、『瀑布』が入選、1884年(明治17)の第2回内国絵画共進会でも『山水』、『花鳥』が褒状を得ました。1893年(明治26)のシカゴ万国博、1897年(明治30)のベニス万国博に出品、1899年(明治32)には京都市美術学校教諭となります。
 翌年(明治33)のパリ万博に出品した『雪中燥雀』が銀牌を受け、視察をきっかけとして翌年にかけて渡欧、ターナー、コローなどから強い影響を受けました。1907年(明治40)の文展開設とともに審査員となり、1909年(明治42)に京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)開設とともに教授を務め、多くの後進を育てます。
 また、帝展審査員にもなり、1913年(大正2)に帝室技芸員、1919年(大正8)に帝国美術院会員、1924年(大正13)にはフランスのレジオンドヌール勲章、1931年(昭和6)にハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞などの栄誉にも輝きました。1937年(昭和12)に第1回文化勲章を受章し、京都画壇近代化の祖として、西の栖鳳、東の大観とも称されます。
 しかし、1942年(昭和17)8月23日に、神奈川県足柄下郡湯河原町で病気療養中の折、77歳で亡くなりました。門下からは上村松園、西村五雲、西山翠嶂、土田麦僊、小野竹喬、徳岡神泉らを輩出しています。

〇竹内栖鳳の主要な作品

・『雁(がん)に双鶴(そうかく)』(1882年)第1回内国絵画共進会入選
・『瀑布(ばくふ)』(1882年)第1回内国絵画共進会入選
・『山水』(1884年)第2回内国絵画共進会褒状
・『花鳥』(1884年)第2回内国絵画共進会褒状
・『雪中燥雀』(1900年)パリ万国博覧会展銀牌
・『大獅子図』(1902年)藤田美術館蔵
・『和蘭春光』(1902年)
・『伊太利秋色』(1902年)
・『羅馬之図』(1903年)海の見える杜美術館蔵
・『雨霽 (うせい) 』(1907年)東京国立近代美術館蔵
・『飼われたる猿と兎』(1908年)東京国立近代美術館蔵
・『アレ夕立に』(1909年)高島屋史料館蔵
・『絵になる最初』(1913年)京都市美術館蔵(国指定重要文化財)
・『群鵜』(1913年)霞中庵 竹内栖鳳記念館蔵
・『班猫』(1924年)山種美術館蔵(国指定重要文化財)
・『宿鴨宿鴉』(1926年)東京国立近代美術館蔵
・『平家驚禽声逃亡』東京国立博物館蔵
・『秋興』(1927年)京都国立近代美術館蔵
・『薫風稚雀・寒汀白鷺』(1928年)三の丸尚蔵館蔵
・『おぼろ月』(1928年)
・『蹴合 (けあい) 』(1929年)大倉文化財団蔵
・『潮来 (いたこ) 小暑』(1930年)山種美術館蔵
・『風竹野雀』『老柳眠鷺』『善雀』(1934年)東本願寺大寝殿障壁画
・『鯖(さば)』
・『夏鹿』
・『城外風薫』
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、劇作家・小説家長谷川時雨の亡くなった日です。
 長谷川時雨(はせがわ しぐれ)は、明治時代前期の1879年(明治12)10月1日に、東京府日本橋区通油町1丁目(現在の東京都中央区)で、日本初の免許代言人(弁護士)の一人となった父・長谷川深造、母・多喜の長女として生まれましたが、本名はヤスと言いました。秋山源泉学校で寺子屋教育をうけて後、17歳の時に佐佐木信綱の竹柏園(ちくはくえん)に入門し、古典を学びます。
 1897年(明治30)に結婚したものの意に染まず、小説や戯曲を書きはじめました。1901年(明治34)に、「女学世界」誌に短編『うづみ火』を投稿して特賞に選ばれます。
 1905年(明治38)に「読売新聞」の懸賞に応募した戯曲『海潮音』が、坪内逍遙に認められて入選して逍遙に師事、翌年、戯曲『覇王丸』が日本海事協会の募集に当選して世に出ました。1907年(明治40)に離婚、翌年に発表した『花王丸』が歌舞伎座で上演され,女流劇作家としての地歩を築き、菊五郎、2世市川猿之助らと組んで新舞踊劇運動を興すことになります。
 1919年(大正8)に通俗小説家三上於菟吉(おときち)と世帯をもち、1923年(大正12)に岡田八千代(やちよ)とともに同人雑誌『女人芸術』を出しますが大震災のため2号で廃刊となりました。その後これを引き継ぎ、1928年(昭和3)に三上の援助で『女人芸術』を復刊し、女流作家の育成に努めます。
 林芙美子、円地文子らがここから育ちましたが、1941年(昭和16)8月22日に、東京において、61歳で亡くなりました。

〇長谷川時雨の主要な作品

・短編『うづみ火』(1901年)「女学世界」の特賞入選
・戯曲『海潮音』(1905年)「読売新聞」の懸賞入選
・戯曲『覇王丸』(1906年)日本海事協会の募集に当選
・戯曲『花王丸』(1908年)
・戯曲『操(みさお)』(1911年)のち『さくら吹雪』と改題
・小説『日本美人伝』(1911年)
・小説『臙脂伝』(1912年)
・戯曲『玉はゞき』(1913年)
・戯曲『江島生島』(1913年)
・小説『旧聞日本橋』(1935年)
・小説『近代美人伝』(1936年)
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