ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年08月

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、小説家・検察官・弁護士佐賀潜の亡くなった日です。
 佐賀潜(さが せん)は、1909年(明治42)3月21日に、東京において、代々佐賀鍋島藩に仕えた松下家を継ぐ父の子として生まれましたが、本名は松下幸徳(まつした ゆきのり)と言いました。中央大学法学部へ入学し、在学中に司法試験に合格、卒業後司法修習を終えて、1940年(昭和15)に検事となり、福岡、千葉、東京などの地検検事を務めます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に検事を辞めて、弁護士事務所を開業し、森脇将光事件などを手掛け、日本推理作家協会の顧問弁護士ともなりました。その一方で、推理小説を書き始め、1959年(昭和34)に短編を集めた『ある殺意』、翌年『ある疑惑』を刊行、さらに、長編『第三の殺人』、『むらさきの女』を1961年(昭和36)に刊行して、作家としての地歩を固めます。
 翌年には弁護士経験を生かして書いた『華やかな死体』で第8回江戸川乱歩賞を受賞、その後も次々と弁護士を主人公とした推理小説などを発表して、人気作家となりました。また、1967年(昭和42)から光文社のカッパビジネスシリーズとして刊行された『民法入門』(1967年)、『商法入門』(1967年)、『刑法入門』(1968年)、『労働法入門』(1968年)などの法律入門書がベストセラーとなります。
 テレビの法律相談等でも活躍しましたが、1970年(昭和45)8月31日に、胃がんのために61歳で亡くなりました。

〇佐賀潜の主要な著作

・短編集『ある殺意』(1959年)
・短編集『ある疑惑』(1960年)
・長編『第三の殺人』(1961年)
・長編『むらさきの女』(1961年)
・長編『華やかな死体』(1962年)第8回江戸川乱歩賞受賞
・長編『黒の記憶』(1963年)
・長編『特捜圏外』(1963年)
・長編『恐喝』(1964年)
・長編『黒幕』(1965年)
・長編『総理大臣秘書』(1967年)
・法律入門書『民法入門 金と女で失敗しないために』(1967年)
・法律入門書『商法入門 ペテン師・悪党に打ち勝つために』(1967年)
・法律入門書『刑法入門 臭い飯を食わないために』(1968年)
・法律入門書『労働法入門 がっぽり給料をもらうために』(1968年)
・法律入門書『道路交通法入門 お巡りさんにドヤされないために』(1968年)
・法律入門書『税法入門 脱税者の汚名を受けないために』(1968年)
・法律入門書『不動産法入門 悪徳業者の口車にのらないために』(1969年)
・法律入門書『憲法入門 二度と兵隊にとられないために』(1970年)
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 今日は、江戸時代後期の1863年(文久3)に洋画家原田直次郎の生まれた日ですが、新暦では10月12日となります。
 原田直次郎(はらだ なおじろう)は、江戸小石川において、岡山藩士で幕府蕃書調所出役の兵学者だった父・原田一道と母・あいの次男として生まれました。1868年(明治元)に岡山に転居しましたが、翌年に上京し、浅草の池田侯の邸に住みます。
 1870年(明治3)に大阪に転居し、大阪開成学校に入学してフランス語を学びましたが、1873年(明治6)に東京の駿河台に転居し、東京外国語学校フランス語科に入学しました。在学中に山﨑成章に洋画を学ぶようになり、1881年(明治14)卒業後に大久保さだと結婚します。
 翌年、天絵学舎で高橋由一に師事して洋画を学び、1884年(明治17)に絵を学ぶため、妻子を残してドイツへ自費留学して、ミュンヘンの美術学校に入学しました。ガブリエル・マックスについて写実技法と歴史画を学び、『ドイツの少女』、『靴屋の阿爺(おやじ)』(2002年に国指定重要文化財)、『風景』などを制作します。
 1887年(明治20)に帰国、翌年本郷にアトリエを新築、1889年(明治22)からアトリエで画塾「鐘美舘」を開き、和田英作、三宅克己らの後進を指導しました。この年同志たちと明治美術会を創立、翌年第3回内国勧業博覧会の審査官となり、大作『騎竜観音』(2007年に国指定重要文化財)を出品したほか、シカゴ万国博覧会のための鑑査官などを務めます。
 1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に歴史画の大作『素尊斬蛇』を出品し妙技3等賞を受賞しました。この間、森鴎外の『於母影』などの挿絵や『めさまし草』の表紙絵も描きます。
 しかし、病を得て1898年(明治31)に神奈川県子安村に転居して療養したものの、翌年12月26日に、東京の病院において、36歳の若さで亡くなっています。

〇原田直次郎の主要な作品

・『神父』(1885年)信越放送株式会社蔵
・『老人像』(1886年頃)三重県立美術館蔵
・『老人』(1886年頃)東京芸術大学大学美術館蔵
・『靴屋の阿爺(おやじ)』(1886年)東京芸術大学大学美術館蔵 国指定重要文化財
・『風景』(1886年)岡山県立美術館蔵
・『ドイツの少女』(1886年頃)東京国立博物館蔵
・『西洋婦人像』(制作年不詳)岡山県立美術館蔵
・『島津久光像』(1888年)尚古集成館蔵
・『上野東照宮』(1889年)岡山県立美術館蔵
・『毛利敬親像』(1890年)山口県立山口博物館蔵 第3回内国勧業博覧会妙技3等賞受賞
・『騎竜観音(きりゅうかんのん)』(1890年)護国寺蔵(東京国立近代美術館寄託)第3回内国勧業博覧会出品 国指定重要文化財
・『新島襄像』(1890年)同志社大学同志社社史資料センター蔵
・『横井小楠像』(1890年)同志社大学同志社社史資料センター蔵
・『素尊斬蛇』(1891年)第4回内国勧業博覧会妙技3等賞受賞
・『雪景』(制作年不詳)森鴎外記念館(津和野町)蔵
・『連池』(制作年不詳)森鴎外記念館(津和野町)蔵
・『徳富淇水像』(1893年)水俣市立蘇峰記念館蔵
・『高橋由一像』(1993年)東京芸術大学大学美術館蔵
・『伊藤快彦像』(制作年不詳)京都市美術館蔵
・『海浜風景』(1897年)東京芸術大学大学美術館蔵 第8回明治美術会展出品
・『安藤信光像』(1898年)東京国立博物館蔵 絶筆
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 今日は、江戸時代後期の1835年(天保6)に、南画家田能村竹田の亡くなった日ですが、新暦では10月20日となります。
 田能村竹田(たのむら ちくでん)は、1777年(安永6年6月10日)に、豊後国竹田(現在の大分県竹田市)岡藩藩医の田能村碩庵の次男(母は水島氏)として生まれましたが、名は孝憲と言いました。藩校由学館に学び、成績優秀でしたが、1794年(寛政6年)、18歳のときに母と兄を亡くし、やがて医業を修めるようになり家の職を継ぎます。
 22歳で由学館に出仕して儒員となり、唐橋君山の下で『豊後国志』の編纂に従うなどして頭取にまで進みました。1801年(享和元)に編纂事業のため江戸に下向、かねてから文通していた谷文晁を訪問します。
 27歳で家督を相続し、12人扶持を給せられましたが、1805年(文化2)には、眼病治療と儒学を学ぶため、京都へ約2年間遊学しました。1811年(文化8)と翌年の岡藩の大一揆に際し、二度にわたって藩政改革の建白書を無視され、病気療養もあって、1813年(文化10)に辞職して、隠遁します。
 それ以後、豊後と京阪との間を往来しながら、頼山陽、岡田半江、浦上春琴、菅茶山、青木木米などの文人墨客と交わりました。その中で、清高な画風の南画を多く描きましたが、詩歌・文章・書・茶香などにも通暁しています。
 特に、画帖『亦復一楽帖 』(1830年)や師友や弟子などの小伝を収録した『竹田荘師友画録』(1833年脱稿)、画論や作品、画家評などを短文百ヶ条で綴った『山中人饒舌』(1835年)などが知られてきました。門下として高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入らを育てましたが、1835年(天保6年8月29日)に、大坂の藩邸において、数え年59歳で亡くなっています。

〇田能村竹田の主要な作品

<国指定重要文化財の作品>
・『梅花図(花卉図)』(1808年)大分市美術館蔵
・『四季花鳥図』(1809年)大分市美術館蔵
・『雁来紅群雀図』(1813年)大分市美術館蔵
・『芙蓉残雪図(富士図)』(1819年)大分市美術館蔵
・『白鶴図』(1822年)大分市美術館蔵
・『月下芦雁図』(1823年)大分市美術館蔵
・『梅花書屋図及題詩』(1824年)大分市美術館蔵
・『秋景山水図』(1828年)大分市美術館蔵
・『渓荘趁約図』(1828年)大分市美術館蔵
・『柳陰捕魚図』(1828年頃)大分市美術館蔵
・『船窓小戯帖』(1829年)個人蔵
・『稲川舟遊図』(1829年)大分市美術館蔵
・『冬籠図』(1826~30年)大分市美術館蔵
・『君子延年図』(文政末年頃)大分市美術館蔵
・『松鶴図(白鶴図)』(天保期)大分市美術館蔵
・『騎馬武者図』(天保期)大分市美術館蔵
・画帖『亦復一楽帖 (またまたいちらくじょう) 』(1830年)寧楽美術館蔵
・『歳寒三友双鶴図』(1831年)個人蔵、大分県立美術館寄託
・『暗香疎影図』(1831年)大分市美術館蔵
・『桃花流水図』(1832年)大分市美術館蔵
・『曲渓複嶺図及題詩』(1832年)大分市美術館蔵
・『秋渓間適図』(1832年)大分市美術館蔵
・『松巒古寺図』(1833年)東京国立博物館蔵
・『梅花書屋図』(1832年)出光美術館蔵
・『盆卉図』(1833年)大分市美術館蔵
・『澗道石門図』(1834年)大分市美術館蔵
・『浄土寺図』(1834年)大分市美術館蔵
・『漁樵問答図』(1834年)大分市美術館蔵
・『秋渓趁約図』(1834年)大分市美術館蔵

〇田能村竹田の主要な著書

・画論『山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)』(1834年)
・交友録『竹田荘師友画録(ちくでんそうしゆうがろく)』(1833年脱稿、没後に刊行)
・研究書『填詞図譜(てんしずふ)』
・『屠赤瑣瑣録』
・『竹田荘泡茶訣』
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 今日は、安土桃山時代の1597年(慶長2)に、室町幕府第15代将軍だった足利義昭の亡くなった日ですが、新暦では10月9日となります。
 足利義昭(あしかが よしあき)は、戦国時代の1537年(天文6年11月3日)に、京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男(母は近衛尚通の娘)として生まれました。1562年(永禄5)に、尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶(かくけい)と称します。
 1565年(永禄8)に第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると同院内に軟禁されました。しかし、細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出し、近江の和田惟政を頼り、翌年還俗して義秋と称します。
 その後、若狭を経て越前に移り、1568年(永禄11)に一乗谷の朝倉義景の館で元服して義昭と改名しました。同年7月には美濃に入り織田信長の食客となり、同年9月信長に擁立されて入京し、室町幕府第15代将軍に就任します。
 しかし、信長としばしば対立するようになり、1569年(永禄12)に、信長は「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせ、さらに翌年には5ヶ条を追加して、政治行動を規制されました。1572年(元亀3)には信長との手切れを決意し、浅井長政、朝倉義景、武田信玄らの力をかりて、近江に挙兵します。
 翌年に正親町天皇の調停でいったん講和が成りましたが、再び山城槇島城に挙兵しました。すぐに信長に攻められ、子義尋を質として降伏し、京都を追われて河内若江城に移り、室町幕府は崩壊します。
 以後も紀伊由良、備後鞆と流寓し、毛利氏を頼って再起を図るも果たせませんでした。それでも、1582年(天正10)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は、後継者の豊臣秀吉によって帰京を認められ、1588年(天正16)に、山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得ます。
 1万石の知行を与えられ、1592年(文禄元)の文禄の役では、肥前名護屋に従軍しましたが、病を得て、1597年(慶長2年8月28日)に大坂において、数え年61歳で亡くなりました。

〇足利義昭関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年11月3日) 京都において、室町幕府第12代将軍の父・足利義晴の次男として生まれる
・1562年(永禄5年) 近衛尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称する
・1565年(永禄8年) 第13代将軍であった兄・義輝らが、三好三人衆に暗殺されると一乗院内に軟禁される
・1565年(永禄8年7月) 細川藤孝(幽斎)らの活躍で、一乗院を脱出する
・1565年(永禄8年11月21日) 近江国野洲郡矢島村に進出し、在所(矢島御所)とする
・1566年(永禄9年2月17日) 矢島御所において還俗し、義秋と称する
・1566年(永禄9年4月21日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官する
・1568年(永禄11年4月) 一乗谷の朝倉義景の館で元服し、義昭と改名する
・1568年(永禄11年7月) 近江を経て美濃立政寺に入る
・1568年(永禄11年9月) 織田信長に奉じられて入京する
・1568年(永禄11年10月18日) 従四位下に昇叙し、参議に補任、左近衛中将を兼任、室町幕府第15代将軍となる
・1569年(永禄12年1月14日) 信長により「殿中御掟」という9ヶ条の掟書を認めさせられる
・1569年(永禄12年6月22日) 従三位に昇叙し、権大納言に栄進する
・1570年(永禄13年1月) 信長により、5ヶ条を追加されて、さらに政治行動を規制される
・1571年(元亀2年) 上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめる
・1572年(元亀3年10月) 近江にて挙兵する
・1573年(元亀4年4月5日) 正親町天皇の調停でいったん講和する
・1573年(元亀4年7月3日) 南山城の要害・槇島城で再び挙兵する 
・1573年(元亀4年7月18日) 織田軍の攻撃により、槇島城は落城し、京都より追放されて河内若江城に移る
・1574年(天正2年) 紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移る
・1576年(天正4年) 毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移る
・1587年(天正15年) 備後国沼隈郡津之郷の田辺寺で、九州平定に向かう途中の豊臣秀吉と対面する
・1588年(天正16年1月13日) 山城国(京都)に帰還、出家して准三宮の宣下を受け皇族と同等の待遇を得る
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に従軍する
・1597年(慶長2年8月28日) 大坂において、数え年61歳で亡くなる
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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 貝原 益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代前期の1630年(寛永7年11月14日)に、越前国福岡城内(現在の福岡県福岡市)において、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれましたが、名は篤信(あつのぶ)、字は子誠(しせい)と言いました。幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活し、1648年(慶安元)、18歳で福岡藩に仕えます。
 しかし、1650年(慶安3)に第2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなり、医者として身を立てようとして医学修業に励みました。1656年(明暦2)、27歳のときに第3代藩主・黒田光之に許され、藩医として帰藩、翌年から京都へ藩費遊学します。
 松永尺五、木下順庵、中村斎、向井元升、黒川道祐、松下見林らと交わり、本草学や朱子学等を学び、1664年(寛文4)35歳の時に福岡へ戻りました。150石の知行を得て、藩内での朱子学の講義や朝鮮通信使への対応に当たります。
 君命で『黒田家譜』や『筑前国続風土記』(1703年成立)を編纂したのをはじめ、晩年に至るまで、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育など幅広い分野で、98部247巻の著述をしました。博物学的実証主義に立って窮理の道を重視、民生日用の学を重んじて、庶民を啓蒙し、本草学史上で開拓的な意味をもつ『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)や医書『養生訓』(1713年)、子女の教育を説いた『和俗童子訓』(1710年)などで有名です。
 晩年には朱子学への疑問をまとめた『大疑録』も著しましたが、1714年(正徳4年8月27日)に、数え年85歳で亡くなりました。

〇貝原益軒の主要な著作

・『近思録備考』(1668年)
・『和漢名数』(正1678年、続1695年)
・本草書『花譜』(1694年)
・『黒田家譜』
・語源辞書『日本釈名』(1700年)
・『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)
・本草書『菜譜(さいふ)』(1704年)
・本草書『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)
・教育書『和俗童子訓』(1710年)
・思想書『自娯集』(1712年)
・医書『養生訓』(1713年)
・教育書『大和俗訓』
・思想書『慎思録(しんしろく)』
・思想書『大疑録(たいぎろく)』
・『君子訓』
・紀行文『和州巡覧記』
・教育書『五常訓』
・教育書『家道訓』
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