今日は、江戸時代後期の1835年(天保6)に、南画家田能村竹田の亡くなった日ですが、新暦では10月20日となります。
田能村竹田(たのむら ちくでん)は、1777年(安永6年6月10日)に、豊後国竹田(現在の大分県竹田市)岡藩藩医の田能村碩庵の次男(母は水島氏)として生まれましたが、名は孝憲と言いました。藩校由学館に学び、成績優秀でしたが、1794年(寛政6年)、18歳のときに母と兄を亡くし、やがて医業を修めるようになり家の職を継ぎます。
22歳で由学館に出仕して儒員となり、唐橋君山の下で『豊後国志』の編纂に従うなどして頭取にまで進みました。1801年(享和元)に編纂事業のため江戸に下向、かねてから文通していた谷文晁を訪問します。
27歳で家督を相続し、12人扶持を給せられましたが、1805年(文化2)には、眼病治療と儒学を学ぶため、京都へ約2年間遊学しました。1811年(文化8)と翌年の岡藩の大一揆に際し、二度にわたって藩政改革の建白書を無視され、病気療養もあって、1813年(文化10)に辞職して、隠遁します。
それ以後、豊後と京阪との間を往来しながら、頼山陽、岡田半江、浦上春琴、菅茶山、青木木米などの文人墨客と交わりました。その中で、清高な画風の南画を多く描きましたが、詩歌・文章・書・茶香などにも通暁しています。
特に、画帖『亦復一楽帖 』(1830年)や師友や弟子などの小伝を収録した『竹田荘師友画録』(1833年脱稿)、画論や作品、画家評などを短文百ヶ条で綴った『山中人饒舌』(1835年)などが知られてきました。門下として高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入らを育てましたが、1835年(天保6年8月29日)に、大坂の藩邸において、数え年59歳で亡くなっています。
〇田能村竹田の主要な作品
<国指定重要文化財の作品>
・『梅花図(花卉図)』(1808年)大分市美術館蔵
・『四季花鳥図』(1809年)大分市美術館蔵
・『雁来紅群雀図』(1813年)大分市美術館蔵
・『芙蓉残雪図(富士図)』(1819年)大分市美術館蔵
・『白鶴図』(1822年)大分市美術館蔵
・『月下芦雁図』(1823年)大分市美術館蔵
・『梅花書屋図及題詩』(1824年)大分市美術館蔵
・『秋景山水図』(1828年)大分市美術館蔵
・『渓荘趁約図』(1828年)大分市美術館蔵
・『柳陰捕魚図』(1828年頃)大分市美術館蔵
・『船窓小戯帖』(1829年)個人蔵
・『稲川舟遊図』(1829年)大分市美術館蔵
・『冬籠図』(1826~30年)大分市美術館蔵
・『君子延年図』(文政末年頃)大分市美術館蔵
・『松鶴図(白鶴図)』(天保期)大分市美術館蔵
・『騎馬武者図』(天保期)大分市美術館蔵
・画帖『亦復一楽帖 (またまたいちらくじょう) 』(1830年)寧楽美術館蔵
・『歳寒三友双鶴図』(1831年)個人蔵、大分県立美術館寄託
・『暗香疎影図』(1831年)大分市美術館蔵
・『桃花流水図』(1832年)大分市美術館蔵
・『曲渓複嶺図及題詩』(1832年)大分市美術館蔵
・『秋渓間適図』(1832年)大分市美術館蔵
・『松巒古寺図』(1833年)東京国立博物館蔵
・『梅花書屋図』(1832年)出光美術館蔵
・『盆卉図』(1833年)大分市美術館蔵
・『澗道石門図』(1834年)大分市美術館蔵
・『浄土寺図』(1834年)大分市美術館蔵
・『漁樵問答図』(1834年)大分市美術館蔵
・『秋渓趁約図』(1834年)大分市美術館蔵
〇田能村竹田の主要な著書
・画論『山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)』(1834年)
・交友録『竹田荘師友画録(ちくでんそうしゆうがろく)』(1833年脱稿、没後に刊行)
・研究書『填詞図譜(てんしずふ)』
・『屠赤瑣瑣録』
・『竹田荘泡茶訣』