後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、安土桃山時代の1596年(文禄5年6月4日)に、京都において後陽成天皇の第3皇子(母は藤原前子)として生まれましたが、幼称は三宮(名は政仁)と言いました。1611年(慶長16)に、後陽成天皇から譲位され16歳で即位し、第108代とされる天皇となります。
しかし、1615年(元和元)に江戸幕府により「禁中並公家諸法度」が制定され、所司代、付武家などを通じての干渉が強くなりました。1620年(元和6)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし、外戚となった徳川氏は皇居を造営し、1623年には新たに1万石の御料を進めるなどします。1624年(寛永元)には、和子の皇后宣下が行われ、中宮となりました。
紫衣事件や前例を無視した春日局の無位無官の身での拝謁強行などによって幕府への不満を募らせ、1629年(寛永6)に、突如わずか7歳の興子内親王(明正天皇)に譲位します。以後明正、後光明、後西、霊元天皇の4代にわたって、約27年間院政を行ないました。
その中で、学問、詩歌、書道、茶道に深い造詣を示し、智仁親王、烏丸光広らの「伊勢物語」、「源氏物語」などの進講を受け、『伊勢物語御抄』などを著し、古今伝授を受けています。また、宮廷歌壇を確立し、歌集『鴎巣集』を作り、宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示して、『当時年中行事』を著しました。
仏道にも帰依し、1651年(慶安4)に剃髪、1653~55年に日本屈指の名園として知られる修学院離宮を造営させています。1680年(延宝8年8月19日)に、数え年85歳で亡くなりましたが、陵は京都市東山区今熊野泉山町(月輪陵)に造られました。
〇後水尾天皇の主要な著作
・歌集『鴎巣(おうそう)集』
・『当時年中行事』
・『伊勢物語御抄』
☆紫衣事件とは?
江戸幕府の朝廷統制圧迫の政策を示す事件で、朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を江戸幕府が無効としたものでした。
江戸幕府は、1613年(慶長18)に、「紫衣着用の際はあらかじめ知らせること」という『勅許紫衣竝に山城大徳寺、妙心寺等諸寺入院の法度』を出します。さらに、2年後の1615年(慶長20)には『禁中並公家諸法度』を定めて、その16条で「一紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。」としていました。
しかし、この頃は勅許による収入が朝廷の重要な財源となっていたこともあり、1626年(寛永3)に後水尾天皇はこれまでの慣例どおり、幕府に相談なく、大徳寺・妙心寺等の僧十数人に紫衣着用を許可します。江戸幕府は翌年に、事前に勅許の相談のなかったことは法度違反とし、多くの勅許状の無効を宣言し、紫衣を取り上げるよう命じました。
大徳寺住職の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩や妙心寺単伝士印、東源慧等らの高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出して服従せず、江戸幕府は、1629年(寛永6年7月25日)に沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流の刑に処します。その上、1615年(元和元)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪しました。また、同年11月8日の後水尾天皇の退位に繋がったと言われています。
その後、1632年(寛永9)に、徳川秀忠(第2代将軍)の死去に際して、大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許されました。1641年(寛永18)には、事件の発端となった大徳寺と妙心寺の寺法旧復が第3代将軍徳川家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も復されています。