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 今日は、江戸時代中期の1691年(元禄4)に、経世家・陽明学者熊沢蕃山の亡くなった日ですが、新暦では9月9日となります。
 熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、江戸時代前期の1619年(元和5)に、京都稲荷(現在の京都府京都市下京区)の加藤家浪人であった父・野尻藤兵衛一利、母・亀女の長男として生まれましたが、名は伯継(しげつぐ)と言いました。
 8歳の時に常陸国水戸に行き、母方の祖父である熊沢守久の養子となって、熊沢姓を名乗ることとなります。1634年(寛永11)に岡山藩主池田光政に近習として仕えましたが、4年で辞し、祖母の里である近江国小川村(現在の滋賀県高島市)に帰り、学問を志して、1642年(寛永19)に中江藤樹に入門し、陽明学を学びました。
 1645年(正保2)に再び岡山藩に仕え、光政側近として活躍、零細農民の救済、治山・治水等の土木事業、農業政策などで治績をあげ、番頭3,000石にまでなったものの、1657年(明暦3)に致仕し、隠退します。1658年(万治元)に京都に移って私塾を開き、講学・著述に従事しましたが、1667年(寛文7)に京都追放処分を受け、大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れました。
 1669年(寛文9)には、幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなり、太山寺(現在の神戸市西区)に幽閉されます。その後は著述に専念し、『集義和書』(1672年)、『集義外書』(1679年)などを著し、信之の転封に従って大和郡山へと移りました。
 1687年(貞享4)に『大学或問』等による幕政批判のため幕府に疎まれ、下総古河(現在の茨城県古河市)に幽囚の身となり、1691年(元禄4年8月17日)に古河城内において、数え年73歳で亡くなっています。

〇熊沢蕃山の主要な著作

・『大和西銘(やまとせいめい)』(1650年)
・『集義和書』(1672年)
・『集義外書』(1709年)
・意見書『大学或問(わくもん)』2巻(1686年)
・『易緊辞伝』
・『源氏外伝』(源氏物語の注釈書)
・『水土解』
・『論語小解』
・『三輪物語』