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 今日は、江戸時代中期の1716年(享保元)に、俳人山口素堂が亡くなった日(素堂忌)ですが、新暦では9月30日となります。
 山口素堂(やまぐち そどう)は、江戸時代前期の1642年(寛永19年5月5日)に、甲斐国北巨摩郡上教来石村(現在の山梨県北杜市)で、酒造業を営む郷士山口市右衛門の長子として生まれたとされていますが、名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛と言いました。少年時代に家族と共に甲府に移り、一時家業を継ぎましたが、20歳のころ弟に家督を譲って、江戸へ出ます。
 林鵞峰について漢学を修め、一時は儒学または算用の才をもって仕官しました。俳諧は1668年(寛文8)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見で、1674年(延宝2)に京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道なども修めています。
 1675年(延宝3)には、江戸下向中の宗因を歓迎する百韻の興行をして、当時まだ無名だった松尾芭蕉との交流が始まり、翌年には両人で『江戸両吟集』を発行するなどしました。1679年(延宝7)に38歳で職を辞し、上野不忍池のほとりに隠棲、以後次第に俳壇に重きをなすようになったものの、芭蕉らの新風を支持します。
 1685年(貞享2)頃に葛飾に移り、葛飾風の祖と言われるようになりますが、俳諧のみならず和歌、漢詩などの文芸や茶道、能楽などの芸能に親しみました。豊かな教養と洗練された趣味性に支えられた文人的な生涯を送ったものの、1716年(享保元年8月15日)に、江戸において、数え年75歳で亡くなっています。

<代表的な句>

・「かへすこそ 名残おしさは 山々田」(『伊勢踊』より)
・「雨の蛙 聲高になるも 哀也」(『蛙合』より)   
・「春もはや 山吹しろく 苣苦し」(『續虚栗』より)   
・「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(『江戸新道』より)

〇山口素堂の主要な著作

・『とくとくの句合』
・『俳諧五子稿』
・『江戸両吟集』松尾芭蕉との共著(1676年)