横井小楠(よこい しょうなん)は、肥後国熊本城下の内坪井町(現在の熊本県熊本市)で、家禄150石の熊本藩士だった父・横井時直、母・かずの次男として生まれましたが、幼名は又雄(のち時存)、通称は平四郎と言いました。
藩校時習館に学んで朱子学的教養を身につけ、1837年(天保8)には居寮長(塾長)となります。1839年(天保10)に、藩命により江戸に遊学し、林檉宇の門下生となり、佐藤一斎、藤田東湖らと交渉を持ちましたが、酒の上で過失があり、翌年には帰藩逼塞を命ぜられました。
熊本に家塾小楠堂を開いて子弟を教育し、実践的朱子学を追求する「実学党」の中心となります。1851年(嘉永4)に上方から北陸を遊歴し、越前藩との接触が深まり、翌年同藩から求められ『学校問答書』を書き、学政一致の道徳政治の担い手たることを藩主に求めました。
1854年(安政元)に兄の死によって家督を相続し、独自の開国論を唱えましたが、熊本藩には容れられず、不遇な状況が続きました。1858年(安政5)に越前藩主松平慶永(春岳)に招かれて福井に行き、藩政改革を指導、生糸の大量輸出により巨大な利益をあげ、その政策の指針は『国是三論』に著わされて、開国通商、富国強兵、士道3論から成る大綱を主張します。
その後7年間、4回にわたり福井に滞在し、1862年(文久2)に江戸幕府の政事総裁職に就いた春岳の政治顧問となり、参勤交代制の廃止など幕政改革を推進しました。しかし同年、刺客に襲われた際の挙動が士道に背くとして熊本藩から帰国を命ぜられ、知行没収、士籍剥奪の処分を受け蟄居させられます。
1868年(明治元)に明治新政府に招かれ上京し、徴士参与に任ぜられましたが、欧米信奉の元凶と誤解されて、1869年(明治2年1月5日)数え年61歳で、京都の路上にて、尊攘派志士に暗殺されました。
〇横井小楠の主要な著作
・『時務策』(1840年)
・『学校問答書』(1852年)
・『文武一途の説』(1853年)
・『夷虜応接大意』
・『国是三論』(1864年)
・『国是七条』(1862年)