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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、陶芸家荒川豊藏の亡くなった日です。
 荒川豊藏(あらかわ とよぞう)は、1894年(明治27)3月21日に、岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)において、陶業をなりわいとする家で生まれました。1906年(明治39)に多治見尋常高等小学校高等科を卒業後、神戸の貿易商能勢商店で働きましたが、翌年多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店に勤めます。
 1911年(明治44)に 従妹の志づと結婚し、翌年から神戸の親戚のもとで陶器商を手伝いました。1915年(大正4)に名古屋に移り住んで陶器貿易商で働き、1919年(大正8)には京都の名陶工宮永東山を知り、陶業を本格的に修めるようになります。
 1927年(昭和2)に北大路魯山人に招かれて北鎌倉の星岡窯を助けるようになりました。1930年(昭和5)に岐阜県可児郡久々利村大萱で、それまで謎とされていた桃山時代の志野、瀬戸黒、黄瀬戸の古窯址群を発見、1933年(昭和8)星岡窯をやめて、そこに古式の半穴窯を築いて作陶を始めます。
 志野、黄瀬戸、瀬戸黒の復元に生涯をかけ、1935年(昭和10)には、ようやく満足するものができ、その後「豊蔵の志野は桃山期のものを超える」というまでの評価を受けるようになりました。その功績により、1955年(昭和30)に志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定され、同年日本工芸会結成に参加します。
 1957年(昭和32)に中日文化賞、1962年(昭和37)にプラハ国際陶芸展金賞を受賞、1971年(昭和46)には文化勲章も受章しました。1984年(昭和59)に大萱窯の地に豊蔵資料館(現在の荒川豊蔵資料館)を開館しましたが、翌年8月11日に岐阜県多治見市において、91歳で亡くなっています。

〇荒川豊藏関係略年表

・1894年(明治27)3月17日 岐阜県土岐郡多治見町(現在の多治見市)に生まれる
・1906年(明治39) 多治見尋常高等小学校高等科を卒業し、神戸の貿易商能勢商店で働く
・1907年(明治40) 多治見に戻り、地元の陶磁器貿易商木塚商店で働く
・1911年(明治44) 従妹(父の弟の次女)の志づと結婚する
・1912年(明治45) 神戸の親戚のもとで陶器商を手伝う
・1913年(大正2) 長男武夫生まれる
・1915年(大正4) 名古屋に移り住んで陶器貿易商で働く
・1919年(大正8) 名古屋の教育者鈴木勲太郎と知り合い、京都の名陶工宮永東山に引き合わされる
・1922年(大正11) 上絵磁器の事業に失敗して、心機一転、子供のころから得意であった絵描きを志す
・1925年(大正14) 東京の星岡茶寮で使う食器を研究するために東山窯に訪れた北大路魯山人と会う
・1926年(大正15) 次男達生がまれる
・1927年(昭和2) 北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯を手伝うため鎌倉へ行く
・1930年(昭和5) 魯山人と豊蔵は古美術商の横山五郎から名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と志野筍絵茶碗を見せてもらう
・1933年(昭和8) 星岡窯をやめて多治見の大萱古窯跡近くに穴窯をつくる
・1934年(昭和9) 最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸の復元に励む
・1935年(昭和10) ようやく満足するものができ、志野のぐい呑みと瀬戸黒の茶碗を持って鎌倉の魯山人を訪ねる
・1941年(昭和16) 大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催する
・1946年(昭和21) 多治見市にある虎渓山永保寺所有の山を借り受け水月窯を作る
・1955年(昭和30) 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される
・1957年(昭和32) 中日文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 宗達画・光悦筆 鶴図下絵三十六歌仙和歌巻(重要文化財:現京都国立博物館蔵)を発見し入手する
・1962年(昭和37) プラハ国際陶芸展金賞を受賞する
・1968年(昭和43) 妻志づが死去する
・1971年(昭和46) 文化勲章を受章する
・1975年(昭和50) 唐津の西岡小十窯、有田の今泉今右衛門窯で作陶・絵付けする
・1976年(昭和51) 萩の三輪休和窯他で作陶する
・1977年(昭和52) 信楽、備前、丹波の各窯で作陶する
・1978年(昭和53) 萩、唐津、備前の各窯で作陶する
・1984年(昭和59)4月 大萱窯の地に豊蔵資料館(現在の荒川豊蔵資料館)を開館する
・1985年(昭和60)8月11日 岐阜県多治見市において、91歳で亡くなる