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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、「第1回関東地方防空大演習」が開始された日です。
 「第1回関東地方防空大演習」は、1933年(昭和8)8月9~11日の3日間にわたって、首都東京市を中心に一府四県にわたって実施された初めての大規模な関東地方の防空演習でした。演習地域は首都東京市を中心に直径300kmに及び攻撃方は陸海軍の航空部隊や航空母艦の艦上機がこれに当り、防衛方には陸軍の戦闘機三個中隊が回っています。
 この演習について、8月10付『信濃毎日新聞』紙面では、「三機編隊の赤翼機、凄惨帝都を猛撃、全市修羅の巷と化す」の五段見出しで、「執拗果敢な攻撃に全市の混乱全く鼎の湧くような様、サイレンや警鐘が前にも増して響き渡り炎天の空を真一文字に今度は荒川、豊島、淀橋、中野、杉並方面へと敵機の容赦なき猛撃が行われた。これを迎撃する防護団の活動に依って神田ニコライ堂は忽ち濠々たる煙幕に完全に遮蔽された外、十数ヵ所で防護団員の防護演習が敏速に行はれた」と報じました。
 さらに、8月11日付では、「関東防空大演習を嗤う」というタイトルで主筆桐生悠々の社説を掲載、「敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は暗視装置や測位システム、無人航空機などの近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること」とし、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」そして「敵機を断じて領土内に入れるな」と主張します。
 これは陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が『信濃毎日』新聞の不買運動を展開したため、これらの圧力によって桐生悠々は退社を余儀なくされました。
 以下に、この時の社説「関東防空大演習を嗤う」を全文掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「関東防空大演習を嗤う」桐生悠々

 『信濃毎日新聞』1933(昭和8)年8月11日付社説

 防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。
 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。
 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。
 こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡しばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。
 特に、曾ても私たちが、本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、また如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。

  「青空文庫」より

〇桐生悠々とは?

 明治時代後期から昭和時代前期に活躍したジャーナリストです。明治時代前期の1873年(明治6)5月20日に、石川県金沢市で旧加賀藩士の三男として生まれましたが、本名は政次(まさじ)と言いました。
 旧制第四高等学校を経て、1895年(明治28)に東京法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に入学します。穂積八束、一木喜徳郎らに学んだ後、1899年(明治32)に卒業、博文館、『下野新聞』、『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などを転々としました。
 1910年(明治43)に『信濃毎日新聞』の主筆に招かれ、憲政擁護運動のなかで堂々の論陣を張ったものの、1912年(大正元)の社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」で論議を呼び、社の経営方針と対立して、1914年(大正3)に辞職します。その後、「新愛知』の主筆に招かれましたが、民主主義のために国民教育を重視し米国の学校市、学校共和圏などの思想を紹介、第2次憲政擁護運動のなかで 1924年(大正13)に退社しました。
 日刊新聞の創刊などに失敗したのち、1928年(昭和3)に再び『信濃毎日新聞』の主筆に返り咲き、治安維持法や軍備増強、五・一五事件などを激しく批判します。そして、1933年(昭和8)8月11日付の社説「関東防空大演習を嗤う」で陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が『信濃毎日新聞』の不買運動を展開したため、再び退社を強いられました。
 それからは、愛知県東春日井軍守山町(現在の名古屋市守山区)に移住し、名古屋読書会を組織、個人誌『他山の石』を創刊して、反軍、反ファシズムの言論活動を展開したものの、30回近い発禁や削除の弾圧を受け、1941年(昭和16)に廃刊に追い込まれます。経済的にも窮迫しながら、自分の立場を守り続けましたが、同年9月10日に名古屋市において、69歳で亡くなりました。