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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、俳人・国文学者中村草田男の亡くなった日です。
 中村草田男(なかむら くさたお)は、明治時代後期の1901年(明治34)7月24日に、父の赴任先の清国福建省厦門(アモイ)において、清国領事中村修の長男として生まれましたが、本名は清一郎(せいいちろう)と言いました。1904年(明治37)に、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国、1908年(明治41)に一家で東京に転居したものの、2年後に再び松山に戻り、1914年(大正)には、松山中学に入学します。
 松山高等学校を経て、1925年(大正14)に一家で東京に移り、東京帝国大学文学部独文科に入学しましたが、神経衰弱に陥り翌年から休学しました。1928年(昭和3)『ホトトギス』を読み、高浜虚子に師事するようになり、復学後は東大俳句会に入会し、水原秋桜子の指導を受け、国文科に転じます。
 正岡子規を卒論として、1933年(昭和8)に卒業し、成蹊学園に教師として就職しました。翌年から『ホトトギス』同人となり、1936年(昭和11)には第1句集『長子』を出します。
 新興俳句運動に批判的で、加藤楸邨、石田波郷らとともに“人間探求派”と呼ばれましたが、太平洋戦争中は「自由主義者」と中傷、圧迫されました。戦後、『ホトトギス』を離れ、1946年(昭和21)に俳誌『万緑(ばんりょく)』を創刊して終生主宰し、伝統の固有性を継承しつつ、堅実な近代化を推進し、現代俳句の中心的存在となります。
 一方、1949年(昭和24)には、成蹊大学政経学部教授に就任、国文学を担当し、1956年(昭和31)より東京新聞俳壇選者、1959年(昭和34)から朝日俳壇選者となりました。翌年に、現代俳句協会幹事長となりますが、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立が起こったため、1961年(昭和36)に協会を辞し新たに俳人協会を設立、初代会長に就任します。
 1967年(昭和42)に大学を定年退職し、1978年(昭和53)には、メルヘン集『風船の使者』により芸術選奨文部大臣賞を受賞しましたが、1983年(昭和58)8月5日に、東京都内において、82歳で亡くなりました。 

<代表的な句>
・「蟾蜍(ひきがえる)長子家去る由もなし」(『長子』所収)
・「降る雪や明治は遠くなりにけり」(『長子』所収)
・「冬の水一枝の影も欺かず」(『長子』所収)
・「萬緑(ばんりょく)の中や吾子の歯生え初むる」(『火の鳥』所収)
・「勇気こそ地の塩なれや梅真白」(『来し方行方』所収)
・「葡萄食ふ一語一語の如くにて」(『銀河依然』所収)

〇中村草田男の主要な著作

・句集『長子』(1936年)
・句集『火の鳥』(1939年)
・句集『万緑』(1941年)
・句集『来し方行方』(1947年)
・句集『銀河依然』(1953年)
・句集『母郷行』(1956年)
・『俳句入門』(1959年)
・句集『美田』(1967年)
・童話『ビーバーの星』(1969年)
・メルヘン集『風船の使者』(1977年)