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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、幕末の土佐藩士・政治家後藤象二郎が亡くなった日です。
 後藤象二郎(ごとう しょうじろう)は、江戸時代後期の1838年(天保9年3月19日)に、土佐国高知城下(現在の高知県高知市)で、土佐藩士の馬廻320石の父・後藤助右衛門、母・大塚氏の子として生まれましたが、幼名は保弥太(のちに良輔)と言いました。少年期に父を失い、義叔父吉田東洋に訓育され、少林塾に学びます。
 1858年(安政5)に、東洋の推挙によって幡多郡奉行となり、1860年(万延元)には、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行、1861年(文久元)に御近習目付となりましたが、翌年に東洋が暗殺されると任を解かれました。1863年(文久3)に江戸に出て開成所で英語や航海術を学び、1864年(元治元)に藩政に復帰、翌年には大監察となり土佐勤王党の武市瑞山らを裁きます。
 1866年(慶応2)には参政として開成館事業を運営し、長崎、上海に赴くなどして藩の富国強兵につとめ、坂本龍馬と深く交わるようになりました。翌年、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて、公議政体論を唱え、前藩主山内豊信(容堂)に大政奉還を建白させます。
 明治新政府では参与、参議を歴任しましたが、1873年(明治6)に征韓論に敗れ、西郷隆盛、板垣退助とともに下野しました。1874年(明治7)に副島種臣、江藤新平らと愛国公党を組織し、民撰議院設立建白に参画、1881年(明治14)には、板垣退助らと自由党を結成します。
 1887年(明治20)に反政府大同団結運動をおこないますが、のち政府に協力し、1889年(明治22)から逓信大臣、1892年(明治25)から農商務大臣を務めました。しかし、1894年(明治27)に辞任し、心臓病を患って、1897年(明治30)8月4日に、東京において、59歳で亡くなっています。

〇後藤象二郎関係略年表

・1838年(天保9年3月19日) 土佐国高知城下(現在の高知県高知市)で、土佐藩士の馬廻320石の父・後藤助右衛門、母・大塚氏の子として生まれる
・1858年(安政5) 吉田東洋の推挙によって幡多郡奉行となる
・1860年(万延元) 土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行となる
・1861年(文久元) 御近習目付となる
・1862年(文久2) 吉田東洋が暗殺されると御近習目付の任を解かれる
・1863年(文久3) 江戸に出て開成所で英語や航海術を学ぶ
・1864年(元治元) 藩政に復帰する
・1864年(元治2) 大監察となり土佐勤王党の武市瑞山らを裁く
・1866年(慶応2) 参政として開成館事業を運営し、長崎、上海に赴くなどして藩の富国強兵につとめる
・1867年(慶応3)10月3日 龍馬の提案とされる船中八策に基づいて、公議政体論を唱え前藩主山内豊信(容堂)に大政奉還を建白させる
・1867年(慶応3)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を行なう
・1868年(慶応4) 天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を勤め、暗殺を防ぐ
・1871年(明治4) 工部大輔、左院議長となる
・1873年(明治6)4月 参議となる
・1873年(明治6)10月 征韓論に敗れ、西郷隆盛、板垣退助とともに下野する
・1874年(明治7)1月 副島種臣、江藤新平らと愛国公党を組織し、民撰議院設立建白に参画する
・1874年(明治7) 政治資金を調達するため商社「蓬莱社」を設立する
・1875年(明治8) 元老院副議長となる
・1881年(明治14) 板垣退助らと自由党を結成する
・1882年(明治15) 井上馨らとの密議により三井家から旅費を引き出し、板垣退助と外遊する
・1887年(明治20)5月9日 伯爵となる
・1887年(明治20) 反政府大同団結運動をおこなう
・1889年(明治22)3月 逓信大臣となる
・1892年(明治25) 農商務大臣となる
・1894年(明治27)1月22日 第二次伊藤博文内閣の農商務大臣を辞任する
・1897年(明治30)8月4日 東京において、59歳で亡くなる