目安箱(めやすばこ)は、目安(訴状)を入れる箱のことですが、一般的には、享保の改革の一つとして、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が、江戸城竜ノ口評定所前に設置して庶民の進言・不満などを投書させた箱のこととされてきました。
起源は古く、戦国時代には置かれていたと言われますが、これ以後、1727年(享保12)からは京都・大坂に、1736年(元文元)からは駿府・甲府にも設けられ、幕府にならってこれを置いた藩も多数あったとされます。
原則的に毎月2日、11日、21日の3日間だけ、投書者は庶民、浪人に限って受けつけられましたが、箱は将軍の面前で錠があけられ、訴状は将軍が自ら開封し、その採否は将軍の一存によりました。訴状の内容は、すでにその年の秋、浪人山下幸内が吉宗の緊縮政策を大胆に批判した上書を投じて評判になったのをはじめ、小石川に養生所の設置、江戸市中防火方針の決定、救貧、新田開発など多方面にわたる意見が施政に採用されたとされます。
2008年(平成20)に、徳川記念財団の調査により徳川宗家文書から訴状留(側近が訴状内容をまとめたもの)が発見され、貴重な資料として注目されました。
〇徳川宗家文書の訴状留発見を伝える読売新聞記事(2008年3月8日 読売新聞)
「夫を殺害した犯人を捜してください」「役人を更迭してほしい」――。8代将軍徳川 吉宗が1721年、広く民意を聞くために始めた「目安箱」への直訴内容を将軍の側近が簡潔にまとめた「訴状留そじょうどめ」が徳川宗家文書から発見された。江戸時代の民意の実態を解明する資料として注目される。
将軍に直接意見が届く目安箱は、現在の裁判所にあたる江戸の評定所(東京・丸の内)前に設置され、原則的に毎月2日、11日、21日の3日間だけ受けつけられていた。宗家文書を調査していた徳川記念財団が、幕末の1858年(安政5年)から1864年(元治元年)までの訴状留の存在を確認した。
同財団が安政5年分の225通を分析したところ、同じ内容の再投書をのぞくと1年間の総数は84件にのぼった。多くは幕府直轄領や旗本領での役人の不正を訴えるものだった。
目安箱の実態については、江戸に住む医師の投書によって貧しい病人の窮状を知った吉宗が小石川養生所を設置したケースなど断片的にしかわかっていなかった。
磯田道史・茨城大准教授(近世史)は「政策に役立つ知恵を集めるという第一の目的よりも、民衆側は不正の告発など個別的な案件を訴える場として使っていたことがよく分かる」と話している。23日まで江戸東京博物館(東京・両国)で展示されている。
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安政5年(1858年)の目安箱の主な投書
◇旗本領内の村の農民一同です。(旗本から)たくさんの金を要求され難儀しております。知行替えしてください。
◇某村の周りの村々が申し上げます。この村の人たちはバクチをすすめるので困っています。おただしください。
◇水路の工事に乗じて村々の代表たちが私欲で大金を詐取したために困っております。厳重にお調べください。
◇今蔵の娘うらです。父は年貢の未納分を完済したのに翌年になって勘定が合わないとして呼び出されて困っております。担当の役所を吟味してください。
◇わが村の寺の僧侶は出家者とは思えない所業で一同迷惑しています。お調べください。