堀田正睦(ほった まさよし)は、佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男(母は源田光寿の娘)として江戸藩邸で生まれましたが、初名は正篤(まさひろ)と言いました。義兄の堀田正愛(まさちか)の養子となり、1825年(文政8)に家督相続し、下総佐倉藩第5代藩主となって、従五位下・相模守に叙任されます。
1829年(文政12)に幕府の奏者番、1834年(天保5)には寺社奉行となりました。老中水野忠邦の知遇を受け、1837年(天保8年5月16日)に大坂城代となり従四位下に昇叙し、1841年(天保12)には老中へと進みます。忠邦を補佐して天保の改革を推進しましたが挫折、1843年(天保14)に忠邦と共に辞任し、帰藩しました。
この前後に藩政改革を行い、勧農政策を進め、社倉を建造、また藩校を拡充して成徳書院とし蘭学の導入を図り、西洋の兵制を採用するなどの治績をあげます。ペリー来航に伴う難局に際し、老中阿部正弘に推されて、1855年(安政2)老中に復帰して首座となり、外交にあたりました。
開国政策を熱心に推進し、アメリカ総領事T.ハリスの要求に応じて通商条約調印の勅許を得るため、1858年(安政5)に幕府使者となって上洛し、朝廷の説得に努めたものの失敗します。将軍継嗣問題では大老井伊直弼と意見が合わず、松平忠固と共に登城停止処分にされ、同年6月23日に老中を罷免されました。
翌年に家督を四男の正倫に譲って隠居しますが、1862年(文久2)には、朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となります。その中で、1864年(元治元年3月21日)に。佐倉城三の丸の松山御殿において、数え年55歳で亡くなりました。
〇堀田正睦関係略年表(日付は旧暦です)
・1810年(文化7年8月1日) 下総佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男として江戸藩邸で生まれる
・1825年(文政8年3月) 家督相続し、下総佐倉藩第5代藩主となって、従五位下・相模守に叙任される
・1829年(文政12年4月12日) 幕府の奏者番となる
・1833年(天保4年) 藩主として独り立ちをして藩政改革を指揮する
・1834年(天保5年8月8日) 寺社奉行を兼帯し、備中守に遷任される
・1837年(天保8年5月16日) 大坂城代に異動し、従四位下に昇叙する
・1837年(天保8年7月9日) 大納言(徳川家祥=後の家定)付老中に異動し、侍従を兼任する
・1841年(天保12年3月23日) 本丸老中に異動する
・1843年(天保14年閏9月8日) 老中御役御免により、溜間詰格となる
・1853年(嘉永6年6月) ペリーが浦賀に来航する
・1854年(嘉永7年3月3日) 「日米和親条約」が締結される
・1855年(安政2年10月2日) 安政の大地震により、江戸上屋敷において負傷する
・1855年(安政2年10月9日) 老中に再任されて首座となり、勝手入用掛を兼帯する
・1856年(安政3年10月17日) 外国御用取扱を兼帯する
・1857年(安政4年10月) アメリカ総領事T.ハリスと面接し、「日米修好通商条約」の作成を進める
・1858年(安政5年1月8日) 幕府使者となり上洛し、朝廷に「日米修好通商条約」調印の了承を求めるが失敗する
・1858年(安政5年4月20日) 江戸へ帰府する
・1858年(安政5年6月1日) 養君(世継ぎ徳川慶福=後の家茂)御用となる
・1858年(安政5年6月19日) 勅許を得ずに「日米修好通商条約」が調印される
・1858年(安政5年6月21日) 松平忠固と共に登城停止処分にされる
・1858年(安政5年6月23日) 老中御役御免により、帝鑑間席となる
・1859年(安政6年9月6日) 家督を四男の正倫に譲って隠居し、見山と号する
・1862年(文久2年11月20日) 朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となる
・1864年(元治元年3月21日) 佐倉城三の丸の松山御殿において、数え年55歳で亡くなる