ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年07月

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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、文部省教学局から『臣民の道』が刊行された日です。
 『臣民の道(しんみんのみち)』は、第3次近衛内閣時に文部省教学局より刊行された著作でした。1937年(昭和12)に盧溝橋事件によって日中全面戦争突入する前の5月31日に、文部省編纂『国体の本義』が全国の学校等へ配布されましたが、それと対を成す著作で、内閣の委嘱によって文部省にその編纂、刊行を委せられ教学局が1940年(昭和15)11月初旬から作り始め、3万部が第一版(A5版92ページ)として出来上ります。
 その内容は、「教育勅語」の忠君愛国精神を強くかつ詳細に具現化したもので、家が集まって国をつくるのではなく、国すなわち家で、個々の家は国を本とし、臣民は「遊ぶ閑、眠る間と雖も国を離れた私はなく」と説きました。日本主義国体論を受け継ぎ、「天皇への帰一」と「滅私奉公」による国家への奉仕を国民に要求し、『国体の本義』と共に、太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であったとされています。
 この本に関して、1941年 (昭和16)7月23日付「大阪朝日新聞」では、「これは昭和十二年刊行の「国体の本義」の姉妹篇である。教学局では近日中に初版三万部を全国の国民学校、中等学校、高等専門学校に漏れなく一冊ずつ配布するが国民学校ではまずこの一冊を中心に教員の輪読会を行ってその内容を血となし肉となし直接授業の中へ織込むことは当然ながら祝祭日あるいは朝礼などの厳粛な機会にその一節一句を敷衍して少国民の指導に努めるはずである。さらにこの三万部のほか内閣印刷局では至急数十万部の「臣民の道」を上梓し廉価で一般に売出す計画で、超非常時の銃後に齎す影響は刮目していい」と報道しました。
 以下に、『臣民の道』の章立てと序言の部分を掲載しておきますのでご参照下さい。

〇『臣民の道』の章立て

序言
第一章 世界新秩序の建設
 一、世界史の轉換
 二、新秩序の建設
 三、國防國家體制の確立
第二章  國體と臣民の道
 一、國體
 二、臣民の道 
 三、祖先の遺風 
第三章 臣民の道の實踐
 一、皇國臣民としての修練
 二、國民生活
結語

〇『臣民の道』(序言) 1941年(昭和16)7月21日文部省教学局発行

序言

 皇國臣民の道は、國體に淵源し、天壤無窮の皇運を扶翼し奉るにある。それは抽象的規範にあらずして、歴史的なる日常實踐の道であり、國民のあらゆる生活・活動は、すべてこれ偏に皇基を振起し奉ることに歸するのである。
 顧みれば明治維新以來、我が國は廣く知識を世界に求め、よく國運進展の根基に培つて來たのであるが、歐米文化の流入に伴なひ、個人主義・自由主義・功利主義・唯物主義等の影響を受け、ややもすれば我が古來の國風に悖り、父祖傳來の美風を損なふの弊を免れ得なかつた。滿洲事變發生し、更に支那事變起こるに及んで、國民精神は次第に昂揚して來つたが、なお未だ國民生活の全般に亙つて、國體の本義、皇國臣民としての自覺が徹底してゐるとはいひ難きものがある。ともすれば、國體の尊厳を知りながらそれが單なる觀念に止まり、生活の實際に具現せられざるものあるは深く憂ふべきである。かくては、我が國民生活の各般に於いて根強く浸潤せる歐米思想の弊を芟除し、眞に皇運扶翼の擧國體制を確立して、曠古の大業の完遂を期することは困難である。ここに於いて、自我功利の思想を排し、國家奉仕を第一義とする皇國臣民の道を昂揚實踐することこそ、當面の急務であるといはねばならぬ。
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 今日は、江戸時代末期の1866年(慶応2)に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂が亡くなった日ですが、新暦では8月29日となります。
 徳川家茂(とくがわ いえもち)は、1846年(弘化3年閏5月24日)に、江戸の紀州(和歌山)藩邸(現在の東京都港区)において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男(母は松平氏みさ)として生まれましたが、幼名は菊千代と言いました。父は生まれる前に亡くなり、1847年(弘化4)に第12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)には、斉彊の死去により、4歳で家督を継いで第13代紀州藩主となります。
 1851年(嘉永4)に元服とて慶福(よしとみ)と名乗り、従三位に叙位しました。1853年(嘉永6年10月23日)に、徳川家定が第13代将軍に就任しましたが、病弱で子がなかったため将軍継嗣問題が起きます。
 井伊直弼らの擁立で、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を抑え、1858年(安政5年6月20日)に家定の世子となりました。その後、家定の死去に伴い、同年10月25日に第14代将軍に就任し、名を家茂と改めます。
 1860年(万延元)に桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周、安藤信正らの画策により、公武合体を推進すべく、1862年(文久2)に孝明天皇の皇妹・和宮と結婚(和宮降嫁)しました。1863年(文久3)に朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛し、翌年の2回目の上洛時には、従一位に昇叙し、右大臣となります。
 この年、第1次長州征伐が始まり、翌年の第2次長州征伐の折りには、みずからも大軍を率いて、3度目の上洛の後、大坂城の征長軍本営に入りました。しかし、幕府軍敗戦の報が相次ぐうちに、1866年(慶応2年7月20日)、大坂城内において数え年21歳の若さで病死します。

〇徳川家茂関係略年表(日付は旧暦です)

・1846年(弘化3年閏5月24日) 江戸の紀州藩邸において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男として生まれる
・1847年(弘化4年4月22日) 第12代紀州藩主徳川斉彊の養子となる
・1849年(嘉永2年閏4月2日) 斉彊の死去に伴い第13代紀州藩主となる
・1851年(嘉永4年10月9日) 元服して慶福と名乗り、常陸介に任官、従三位に叙位する
・1853年(嘉永6年10月23日) 徳川家定が第13代将軍に就任する
・1855年(安政2年12月15日) 参議に補任する
・1858年(安政5年6月20日) 大老井伊直弼らに推されて、第13代将軍家定の世子となる
・1858年(安政5年10月24日) 正二位権大納言に昇叙転任する
・1858年(安政5年10月25日) 第14代将軍に就任し、内大臣に転任、名を家茂と改める
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺される
・1862年(文久2年2月11日) 仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹・和宮と結婚する
・1862年(文久2年6月) 慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任じて幕政の改革を行なう
・1863年(文久3年3月4日) 朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛する
・1864年(文久4年1月15日) 2度目の上洛をする
・1864年(文久4年1月21日) 従一位に昇叙し、右大臣に転任する
・1964年(元治元年7月) 蛤御門の変が起ると薩摩と共同して長州藩兵を退ける
・1864年(元治元年8月2日) 第1次長州征伐が始まる
・1865年(慶応元年閏5月22日) 第2次長州征伐のため、3度目の上洛をする
・1865年(慶応元年閏5月) 第2次長州征伐のため大坂城に入る
・1865年(慶応元年10月1日) 朝廷に将軍職の辞表を提出、江戸東帰を発表する
・1865年(慶応元年10月7日) 将軍職の辞表を正式に撤回する
・1866年(慶応2年6月7日) 長州軍と幕府軍とが開戦する
・1866年(慶応2年7月20日) 大坂城で脚気衝心のため、数え年21歳で亡くなる
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、国学者・旅行家菅江真澄の亡くなった日ですが、新暦では8月18日となります。
 菅江真澄(すがえ ますみ)は、1754年(宝暦4)に三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)で、祈祷施薬、白太夫の家筋であった父・白井秀真、母千枝?の次男として生まれたと伝えられていますが、本名は白井英二(のち秀雄)と言いました。
 賀茂真淵の門人植田義方に国学・和歌を学び、1770年(明和7)頃から尾張藩の薬草園に勤め、本草学を修得し、河村秀根に考証学を丹羽嘉言から漢学等を学び、1780年(安永9)に生家に戻ります。1781年(天明元)より各地を旅するようになり、1783年(天明3)には家を出て、信濃、越後、秋田、津軽、南部を遊歴して、1788年(天明8)に蝦夷地に渡り、多くの紀行文等を残しました。
 1801年(享和元)から主に出羽久保田藩(現在の秋田県)領内に居住し、1810年(文化7)から菅江真澄を名乗るようになります。翌年に秋田藩主佐竹義和の依嘱を受け、出羽六郡の地誌作成に従事するようになりましたが、未完に終わりました。
 その中で、1829年(文政12年7月19日)に、出羽国角館において、数え年76歳で亡くなっています。諸国を巡歴して著した絵入りの紀行文は『真澄遊覧記』と総称され、近世の民俗誌的価値がきわめて高く、民俗学・考古学などの好資料となりました。

〇菅江真澄の主要な著作

・『真澄遊覧記』50冊余(1783~1812年)
・『奥の浦うら』(1793年)
・『おぶちの牧』(1793年)
・『奥のてぶり』(1794年)
・『津軽の奥』(1795~1796年)
・『外浜奇勝』(1796~1840年)
・『津軽のをち』(1797年)
・歌謡書『鄙廼一曲』(1809年頃成立)
・日記『氷魚の村君』(1810年)
・編纂『秋田藩領地誌』未完
・考証随筆『筆のまにまに』
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 今日は、鎌倉時代の1315年(正和4)に、鎌倉幕府12代執権北条煕時の亡くなった日ですが、新暦では8月18日となります。
 北条煕時(ほうじょう ひろとき)は、1279年(弘安2年)に北条為時(政村流)の子として生まれましたが、初名は貞泰(さだやす)と言いました。1293年(永仁元)に従五位下左近衛将監に叙任され、1295年(永仁3)には、幕府の引付衆となります。
 1301年(正安3)に評定衆に異動、1305年(嘉元3)に長門探題となりましたが、同年4月に嘉元の乱が起こり、祖父の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされ、自身も命を狙われたものの生き残りました。1309年(延慶2)に寄合衆を兼帯し、1311年(応長元)には連署となります。
 1312年(正和元年6月2日)に11代執権北条宗宣の出家に伴い、12代執権に就任しましたが、実権は内管領の長崎円喜・高資父子らによって掌握されていました。在職3年余りの1315年(正和4年7月11日)に執権を辞して出家し、道常を号しましたが、同月18日に、病のため鎌倉にて、数え年37歳で亡くなっています。
 また、歌人でもあり、『玉葉和歌集』、『新後撰和歌集』に4首入集しました。

〇北条煕時関係略年表(日付は旧暦です)

・1279年(弘安2年) 北条為時の子として生まれる
・1293年(永仁元年7月20日) 従五位下左近衛将監に叙任する
・1295年(永仁3年10月24日) 幕府の引付衆となる
・1299年(正安元年2月28日) 従五位上に昇叙する
・1301年(正安3年8月22日) 評定衆に異動する
・1301年(正安3年8月25日) 四番引付頭人を兼帯する
・1302年(乾元元年11月18日) 右馬権頭に転任する
・1302年(乾元元年9月11日) 六番引付頭人に異動する
・1304年(嘉元2年9月25日) 五番引付頭人に異動する
・1304年(嘉元2年12月7日) 四番引付頭人に異動する
・1305年(嘉元3年8月1日) 三番引付頭人に異動する
・1305年(嘉元3年8月22日) 二番引付頭人に異動する
・1305年(嘉元3年4月) 嘉元の乱が起こり、祖父の時村が討たれる
・1306年(徳治元年6月12日) 正五位下に昇叙する
・1307年(徳治2年1月28日) 一番引付頭人に異動する
・1307年(徳治2年2月9日) 武蔵守に遷任する
・1309年(延慶2年4月9日) 寄合衆を兼帯する
・1311年(応長元年10月3日) 連署に異動する
・1311年(応長元年10月24日) 相模守に遷任する
・1312年(応長2年6月2日) 執権に異動する
・1315年(正和4年7月11日) 出家して、道常を号する
・1315年(正和4年7月18日) 鎌倉にて、数え年37歳で亡くなる
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 今日は、江戸時代前期の1615年(元和元)に、江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定した日ですが、新暦では9月9日となります。
 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が朝廷や公家を統制するための法令でした。大坂の陣で豊臣家が滅亡した直後の1615年(元和元)7月17日に、京都二条城で本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形で制定され、同月30日公家・門跡衆に公布されます。
 起草は金地院崇伝で、正式名称は「禁中方御条目」といい、漢文体の17ヶ条からなっていました。内容は、天皇の本分、摂家・三公の席次や任免、改元、天皇以下公家の衣服、廷臣の刑罰、門跡以下僧侶の官位、紫衣(しえ)勅許の条件などから成り、その後改訂されずに幕末に至ります。
 以下に、「禁中並公家諸法度」の全文(読み下し文・現代語訳・注釈付き)を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830~887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659~720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676~735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792~867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?~715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695~775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)
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