ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年07月

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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、将棋棋士・15世永世名人大山康晴の亡くなった日です。
 大山康晴(おおやま やすはる)は、大正時代の1923年(大正12)3月13日に、岡山県浅口郡河内町西阿知(現在の倉敷市)で生まれました。5歳頃から将棋を覚え、少年の頃から注目されて、1935年(昭和10)に大阪に出て、木見金治郎八段(当時)に入門します。
 1940年(昭和15)に四段、1941年(昭和16)に五段、1943年(昭和18)に六段となりました。しかし、太平洋戦争下の1944年(昭和19)に召集され、南九州で終戦を迎えます。
 戦後将棋界に復帰し、1947年(昭和22)に七段、1948年(昭和23)には八段となり、1952年(昭和27)の第11期名人戦で木村義雄をやぶり、29歳で名人位につきました。その後、第15期まで保持し、1956年(昭和31)に永世名人の資格を得、その他にも王将・九段(十段)・棋聖・王位のタイトルを長期にわたって保持し、1958年(昭和33)に九段、1965年(昭和40)に永世棋聖、さらに第18~30期まで名人位にありましたが、1972年(昭和47)第31期で中原誠八段に敗れます。
 1973年(昭和48)に永世王将の称号を与えられ、1976年(昭和51)には、現役のまま15世名人を襲位しました。翌年から1988年(昭和63)まで、日本将棋連盟会長となって、東京、大阪の将棋会館建設に尽力し、1979年(昭和54)にNHK放送文化賞、1987年(昭和62)に菊池寛賞、1990年(平成2)には、将棋界から初めて文化功労者の栄誉にも輝いています。
 1992年(平成4)7月26日に千葉県柏市において、現役のA級棋士在籍のまま69歳で亡くなりましたが、生涯成績は1,433勝781敗、獲得した公式タイトルは名人位18期、王将位20期、十段8期、王位12期、棋聖位16期など通算80期、一般棋戦優勝44回の大記録を樹立しました。

〇大山康晴関係略年表

・1923年(大正12)3月13日 岡山県浅口郡河内町西阿知(現在の倉敷市)で生まれる
・1935年(昭和10) 大阪に出て、木見金治郎八段(当時)に入門する
・1940年(昭和15) 四段に昇段する
・1941年(昭和16) 五段に昇段する
・1943年(昭和18) 六段に昇段する
・1944年(昭和19) 召集され、陸軍へ入隊する
・1945年(昭和20) 南九州で終戦を迎える
・1947年(昭和22) 七段に昇段する
・1948年(昭和23) 八段に昇段する
・1952年(昭和27) 第11期名人戦で木村義雄をやぶり、29歳で名人位につく
・1953年(昭和28) 倉敷市文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 永世名人の資格を得る
・1958年(昭和33) 九段の称号を得る
・1959年(昭和34) 三冠王(名人・九段・王将独占)となる
・1962年(昭和37) 創設された棋聖位を獲得して初の五冠王(名人・十段・王将・王位・棋聖独占)となる
・1965年(昭和40) 永世棋聖の称号を得る
・1965年(昭和40) 将棋栄誉賞(通算600勝達成)を得る
・1970年(昭和45) 倉敷市名誉市民の称号を贈られる
・1972年(昭和47) 第31期名人戦で中原誠八段に敗れる
・1972年(昭和47) 将棋栄誉敢闘賞(通算800勝達成)を得る
・1973年(昭和48) 永世王将の称号を得る
・1976年(昭和51) 現役のまま15世名人を襲位する
・1977年(昭和52) 日本将棋連盟会長となる
・1977年(昭和52) 特別将棋栄誉賞(通算1000勝達成)を得る
・1977年(昭和52) 「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力する
・1979年(昭和54) NHK放送文化賞を受賞する
・1982年(昭和57) 通算1200勝を達成し表彰される
・1987年(昭和62) 第3回東京都文化賞を受賞する
・1987年(昭和62) 菊池寛賞を受賞する
・1988年(昭和63) 日本将棋連盟会長を退任する
・1990年(平成2) 将棋界から初めて文化功労者となる
・1992年(平成4)7月26日 千葉県柏市において、現役のA級棋士在籍のまま69歳で亡くなる
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、映画監督・映画製作者で、「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の亡くなった日です。
 牧野省三(まきの しょうぞう)は、明治時代前期の1878年(明治11)9月22日に、京都府北桑田郡山国村(現在の京都市右京区)において、漢方医で幕末の勤王派農兵隊・山国隊の副官であった父・藤野齋、母・彌奈の子として生まれました。非嫡出子であったため母に育てられ、幼少より母のやっていた娘義太夫の関係で芸事に親しみます。
 青年時代には、母と共に1901年(明治34)に開場した劇場千本座の経営を助け、芝居の素養を身につけました。その後、映画興行者横田永之助の依頼で、1908年(明治41)に初監督作品『本能寺合戦』を公開します。
 これを機に映画の製作に乗り出し、翌年には、旅役者の尾上松之助をスカウトして、『碁盤忠信』を制作するなど、浄瑠璃本・講談本から筋を得た時代劇映画(旧劇)を多数製作しました。1912年(大正元)には、創立した日本活動写真株式会社(日活)に合流し、関西撮影所の所長に就任、のち重役となります。
 時代劇映画で成功し、松之助を「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれるスターに押し上げました。1921年(大正10)に独立して、牧野教育映画製作所を立ち上げ、翌年無名の歌舞伎役者を起用して『実録忠臣蔵』を撮り、大ヒットします。
 1923年(大正12)にマキノ映画製作所に改組、1925年(大正14)にはマキノプロダクションを設立します。時代劇を中心に映画界に新機軸を打ち出し、俳優の阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎、脚本家の寿々喜多呂九平、山上伊太郎、監督のマキノ正博(雅弘)、衣笠貞之助ら多くの人材を育成しました。
 しかし、1928年(昭和3)に大作『実録忠臣蔵』編集中に失火し自宅が全焼するなどトラブルが起き、トーキーの製作に意欲を示しつつも、1929年(昭和4)7月25日に、京都において心臓麻痺により、50歳で亡くなります。草創期の日本映画を主導した功績は大きく、「日本映画の父」と呼ばれるようになりました。

〇牧野省三映画監督の主要作品一覧

・『本能寺合戦(太閤記の本能寺)』(1908年)
・『菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)』(1909年)
・『明烏夢の泡雪』(1909年)
・『児島高徳誉の桜』(1909年)
・『安達原三段目袖萩祭文の場』(1909年)
・『桜田騒動血染雪』(1909年)
・『碁盤忠信 源氏礎』(1909年)
・『石山軍記』(1910年)
・『忠臣蔵』(1912年)
・『仮名手本忠臣蔵』(1917年)
・『実録忠臣蔵』(1922年)
・『国定忠治』(1925年)
・『修羅八荒 第一篇・第二篇・第三篇・解決篇』(1926年)
・『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(1928年)
・『雷電』(1928年)
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 今日は、平安時代前期の826年(天長3)に、公卿藤原冬嗣の亡くなった日ですが、新暦では8月30日となります。
 藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、奈良時代の775年(宝亀6)に、藤原北家の出身で右大臣となった藤原内麻呂の次男(母は飛鳥部奈止麻呂の娘)として生まれました。806年(大同元)に、平城天皇が即位し、賀美能親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟となった時、従五位下・春宮大進(とうぐうだいしん)となり、信任を得ます。
 809年(大同4)に嵯峨天皇が即位すると一挙に従四位下・左衛士督に叙任されました。810年(大同5年9月)に起きた薬子の変に際して、嵯峨天皇が蔵人所を設置すると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられ、乱収束後の11月には従四位上、翌年には参議に任ぜられ、公卿に列します。
 その後、814年(弘仁5)に従三位、816年(弘仁7)に権中納言、817年(弘仁8)に中納言、818年(弘仁9)には正三位・大納言と急速に昇進しました。その中で、818年(弘仁9)に嵯峨天皇の勅命を受け編集させた『文華秀麗集』を撰上し、820年(弘仁11)に『弘仁格式』の編纂を主導し完成させ、821年(弘仁12)には、『内裏式』の編纂を主導し完成させ、国史の監修に参画するなど実績を積みます。
 一方で、藤原北家隆盛のため、813年(弘仁4)に氏寺の興福寺に南円堂を建立させ、821年(弘仁12)には一族子弟の大学生のための寄宿舎として勧学院を建てさせるなどしました。
 そして、821年(弘仁12)に右大臣、823年(弘仁14)に正二位、825年(天長2)には左大臣にまでなり、娘の順子を仁明天皇の后とするなど皇室との血縁関係を強く結び、藤原氏による摂関政治の基礎を築きましたが、826年(天長3年7月24日)に、数え年52歳で亡くなっています。没後、翌年に正一位を追贈され、850年(嘉祥3)には、太政大臣も贈られました。
 尚、詩歌にも優れ、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に漢詩が、『後撰和歌集』には4首の和歌が採録されています。

〇藤原冬嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・775年(宝亀6年) 藤原内麻呂の次男(母は飛鳥部奈止麻呂の娘)として生まれる
・794年(延暦13年10月) 平安京へ遷都される
・801年(延暦20年閏正月6日) 大判事となる
・802年(延暦21年3月) 左衛士大尉となる
・802年(延暦21年5月14日) 左衛士大尉となる
・806年(大同元年10月9日) 従五位下、春宮大進(春宮・賀美能親王)となる
・807年(大同2年正月23日) 春宮亮となる
・809年(大同4年正月16日) 兼侍従となる
・809年(大同4年2月13日) 右少弁となる
・809年(大同4年4月13日) 嵯峨天皇即位に伴い、正五位下に昇叙する
・809年(大同4年4月14日) 従四位下に昇叙し、左衛士督となる
・809年(大同4年5月5日) 兼大舎人頭となる
・809年(大同4年12月) 兼中務大輔となる
・810年(大同5年正月) 兼備中守となる
・810年(大同5年3月10日) 蔵人頭となる
・810年(大同5年7月16日) 美作守となる
・810年(大同5年9月) 薬子の変が起きる
・810年(大同5年9月6日) 造宮使となる
・810年(大同5年9月16日) 兼式部大輔となる
・810年(大同5年11月22日) 従四位上に昇叙する
・811年(弘仁2年正月29日) 参議となり、公卿に列する
・811年(弘仁2年6月) 左衛門督
・811年(弘仁2年10月11日) 兼春宮大夫(春宮:大伴親王)、停式部大輔
・812年(弘仁3年10月) 父服喪のため辞官する
・812年(弘仁3年11月28日) 復本官
・812年(弘仁3年12月5日) 正四位下に昇叙し、兼左近衛大将となる
・813年(弘仁4年) 興福寺に南円堂を建立させる
・814年(弘仁5年4月) 自邸閑院に嵯峨天皇を迎えて詩宴を催す
・814年(弘仁5年4月28日) 従三位に昇叙する
・816年(弘仁7年正月) 兼近江守となる
・816年(弘仁7年10月18日) 権中納言となる
・817年(弘仁8年2月2日) 中納言となる
・818年(弘仁9年) 嵯峨天皇の勅命を受け編集させた『文華秀麗集』が撰上される
・818年(弘仁9年6月16日) 正三位に昇叙し、大納言となる
・820年(弘仁11年4月) 『弘仁格式』の編纂を主導し完成させる
・821年(弘仁12年) 一族子弟の大学生のための寄宿舎として勧学院を建てる
・821年(弘仁12年正月9日) 右大臣となる
・821年(弘仁12年) 『内裏式』の編纂を主導し完成させる
・822年(弘仁13年正月7日) 従二位に昇叙する
・823年(弘仁14年4月27日) 正二位に昇叙する
・825年(天長2年4月5日) 左大臣となる
・826年(天長3年7月24日) 数え年52歳で亡くなる
・826年(天長3年7月26日) 正一位を追贈される
・850年(嘉祥3年7月17日) 太政大臣を追贈される
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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、「文化財保護法」に基づき、文化財保護審議会が初めて7ヶ所を重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出した日です。
 1975年(昭和50)に、「文化財保護法」が改正され、同法第1章総則のなかで文化財の定義を定めた第2条に、新たに「周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いもの」を「伝統的建造物群」と名づけて文化財の一種に位置づけました。さらに、「伝統的建造物群保存地区」に関する規定をまとめて第5章の2とし、伝統的建造物群およびこれと一体をなしてその価値を形成している環境を保存するため「伝統的建造物群保存地区」として、市町村が地域地区として都市計画もしくは条例で定めることとします。
 その中で、第144条の規定に基づき、国(文部科学大臣)は市町村からの申し出を受けて、国にとって価値が高いと判断したものを「重要伝統的建造物群保存地区」に選定し、修理や防災などに対する補助や税制優遇などの支援を行うことになりました。それを受けて、1976年(昭和51)7月23日に文化財保護審議会が初めて7ヶ所(角館町武家屋敷・南木曽町妻蘢宿・白川村荻町・京都市祇園新橋・京都市産寧坂・萩市堀内地区・萩市平安古地区)を重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出し、同年9月4日付で選定されます。
 その後、1980年(昭和55)末には12市町村の15地区、1990年(平成2)末には24市町村の29地区、2000年(平成12)末には84市町村の102地区へと増加しました。さらに、現在では、43道府県98市町村の118地区(合計面積約3,924.9ha)あり、約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。

〇重要伝統的建造物群保存地区一覧(118地区)

1 北海道函館市元町末広町(港町)1989.4.21選定 (三) 14.5ha
2 青森県弘前市仲町(武家町)1978.5.31選定 (二) 10.6ha
3 青森県黒石市中町(商家町)2005. 7.22選定 (一) 3.1ha
4 岩手県胆沢郡金ケ崎町城内諏訪小路(武家町)2001. 6.15選定 (二) 34.8ha
5 宮城県柴田郡村田町村田(商家町)2014. 9.18選定 (一) 7.4ha
6 秋田県横手市増田(在郷町)2013.12.27選定 (二) 10.6ha
7 秋田県仙北市角館(武家町)1976.9.4選定 (二) 6.9ha
8 福島県喜多方市小田付(在郷町・醸造町)2018.8.17選定 (二) 15.5ha
9 福島県南会津郡下郷町大内宿(宿場町)1981.4.18選定 (三) 11.3ha
10 福島県南会津郡南会津町前沢(山村集落)2011. 6.20選定 (三) 13.3ha
11 茨城県桜川市真壁(在郷町)2010. 6.29選定 (二) 17.6ha
12 栃木県栃木市嘉右衛門町(在郷町)2012. 7. 9選定 (二) 9.6ha
13 群馬県桐生市桐生新町(製織町)2012. 7. 9選定 (二) 13.4ha
14 群馬県吾妻郡中之条町六合赤岩(山村・養蚕集落)2006. 7. 5選定 (三) 63.0ha
15 埼玉県川越市川越(商家町)1999.12. 1選定 (一) 7.8ha
16 千葉県香取市佐原(商家町)1996.12.10選定 (三) 7.1ha
17 新潟県佐渡市宿根木(港町)1991.4.30選定 (三) 28.5ha
18 富山県高岡市山町筋(商家町)2000.12. 4選定 (一) 5.5ha
19 富山県高岡市金屋町(鋳物師町)2012.12.28選定 (一) 6.4ha
20 富山県南砺市相倉(山村集落)1994.12.21選定 (三) 18.0ha
21 富山県南砺市菅沼(山村集落)1994.12.21選定 (三) 4.4ha
22 石川県金沢市東山ひがし(茶屋町)2001.11.14選定 (一) 1.8ha
23 石川県金沢市主計町(茶屋町)2008. 6. 9選定 (一) 0.6ha
24 石川県金沢市卯辰山麓(寺町)2011. 11.29選定 (二) 22.1ha
25 石川県金沢市寺町台(寺町)2012.12.28選定 (二) 22.0ha
26 石川県輪島市黒島地区(船主集落)2009.6.30選定 (二) 20.5ha
27 石川県加賀市加賀橋立(船主集落)2005. 12. 27選定 (二) 11.0ha
28 石川県加賀市加賀東谷(山村集落)2011. 11. 29選定 (三) 151.8ha
29 石川県白山市白峰(山村・養蚕集落)2012. 7. 9選定 (三) 10.7ha
30 福井県小浜市小浜西組(商家町・茶屋町)2008. 6. 9選定 (二) 19.1ha
31 福井県三方上中郡若狭町熊川宿(宿場町)1996.7.9選定 (三) 10.8ha
32 山梨県甲州市塩山下小田原上条(山村・養蚕集落)2015. 7. 8選定 (三) 15.1ha
33 山梨県南巨摩郡早川町赤沢(山村・講中宿)1993.7.14選定 (三) 25.6ha
34 長野県長野市戸隠(宿坊群・門前町)2017.2.23選定 (二) 73.3ha
35 長野県塩尻市奈良井(宿場町)1978.5.31選定 (三) 17.6ha
36 長野県塩尻市木曾平沢(漆工町)2006. 7. 5選定 (二) 12.5ha
37 長野県千曲市稲荷山(商家町)2014.12.10選定 (二) 13.0ha
38 長野県東御市海野宿(宿場・養蚕町)1987.4.28選定 (一) 13.2ha
39 長野県木曽郡南木曽町妻籠宿(宿場町)1976.9.4選定 (三) 1245.4ha
40 長野県白馬村青鬼(山村集落)2000.12. 4選定 (三) 59.7ha
41 岐阜県高山市三町(商家町)1979. 2. 3選定 (一) 4.4ha
42 岐阜県高山市下二之町大新町(商家町)2004. 7. 6選定 (一) 6.6ha
43 岐阜県美濃市美濃町(商家町)1999. 5.13選定 (一) 9.3ha
44 岐阜県恵那市岩村町本通り(商家町)1998. 4.17選定 (三) 14.6ha
45 岐阜県郡上市郡上八幡北町(城下町)2012.12.28選定 (三) 14.1ha
46 岐阜県大野郡白川村荻町(山村集落)1976. 9. 4選定 (三) 45.6ha
47 静岡県焼津市花沢(山村集落)2014. 9.18選定 (三) 19.5ha
48 愛知県名古屋市緑区有松(染織町)2016.7.25選定 (一) 7.3ha
49 愛知県豊田市足助(商家町)2011. 6.20選定 (一) 21.5ha
50 三重県亀山市関宿(宿場町)1984.12.10選定 (三) 25.0ha
51 滋賀県大津市坂本(里坊群・門前町)1997.10.31選定 (三) 28.7ha
52 滋賀県彦根市河原町芹町(商家町)2016.7.25選定 (二) 5.0ha
53 滋賀県近江八幡市八幡(商家町)1991. 4.30選定 (一) 13.1ha
54 滋賀東近江市五個荘金堂(農村集落)1998.12.25選定 (三) 32.2ha
55 京都府京都市上賀茂(社家町)1988.12.16選定 (三) 2.7ha
56 京都府京都市産寧坂(門前町)1976. 9. 4選定 (三) 8.2ha
57 京都府京都市祇園新橋(茶屋町)1976. 9. 4選定 (一) 1.4ha
58 京都府京都市嵯峨鳥居本(門前町)1979. 5.21選定 (三) 2.6ha
59 京都府南丹市美山町北(山村集落)1993.12. 8選定 (三) 127.5ha
60 京都府与謝郡伊根町伊根浦(漁村)2005. 7.22選定 (三) 310.2ha
61 京都府与謝郡与謝野町加悦(製織町)2005.12.27選定 (二) 12.0ha
62 大阪府富田林市富田林(寺内町・在郷町)1997.10.31選定 (一) 11.2ha
63 兵庫県神戸市北野町山本通(港町)1980. 4.10選定 (一) 9.3ha
64 兵庫県豊岡市出石(城下町)2007.12. 4選定 (二) 23.1ha
65 兵庫県篠山市篠山(城下町)2004.12.10選定 (二) 40.2ha
66 兵庫県篠山市福住(宿場町・農村集落)2012.12.28選定 (三) 25.2ha
67 兵庫県養父市大屋町大杉(山村・養蚕集落)2017.7.31選定 (三) 5.8ha
68 奈良県橿原市今井町(寺内町・在郷町)1993.12. 8選定 (一) 17.4ha
69 奈良県五條市五條新町(商家町)2010.12.24選定 (一) 7.0ha
70 奈良県宇陀市松山(商家町)2006. 7. 5選定 (一) 17.0ha
71 和歌山県有田郡湯浅町湯浅(醸造町)2006.12.19選定 (二) 6.3ha
72 鳥取県倉吉市打吹玉川(商家町)1998.12.25選定 (一) 9.2ha
73 鳥取県西伯郡大山町所子(農村集落)2013.12.27選定 (三) 25.8ha
74 島根県大田市大森銀山(鉱山町)1987.12. 5選定 (三) 162.7ha
75 島根県大田市温泉津(港町・温泉町)2004. 7. 6選定 (二) 36.6ha
76 島根県鹿足郡津和野町津和野(武家町・商家町)2013. 8. 7選定 (二) 11.1ha
77 岡山県倉敷市倉敷川畔(商家町)1979. 5.21選定 (一) 15.0ha
78 岡山県津山市城東(商家町)2013 .8 .7選定 (一) 8.1ha
79 岡山県高梁市吹屋(鉱山町)1977. 5.18選定 (三) 6.4ha
80 広島県呉市豊町御手洗(港町)1994. 7. 4選定 (二) 6.9ha
81 広島県竹原市竹原地区(製塩町)1982.12.16選定 (一) 5.0ha
82 広島県福山市鞆町(港町)2017.11.28選定 (二) 8.6ha
83 山口県萩市堀内地区(武家町)1976. 9. 4選定 (二) 55.0ha
84 山口県萩市平安古地区(武家町)1976. 9. 4選定 (二) 4.0ha
85 山口県萩市浜崎(港町)2001.11.14選定 (二) 10.3ha
86 山口県萩市佐々並市(宿場町)2011. 6.20選定 (二) 20.8ha
87 山口県柳井市古市金屋(商家町)1984.12.10選定 (一) 1.7ha
88 徳島県美馬市脇町南町(商家町)1988.12.16選定 (一) 5.3ha
89 徳島県三好市東祖谷山村落合(山村集落)2005.12.27選定 (三) 32.3ha
90 徳島県海部郡牟岐町出羽島(漁村集落)2017.2.23選定 (三) 3.7ha
91 香川県丸亀市塩飽本島町笠島(港町)1985. 4.13選定 (三) 13.1ha
92 愛媛県西予市宇和町卯之町(在郷町)2009.12. 8選定 (二) 4.9ha
93 愛媛県喜多郡内子町八日市護国(製蝋町)1982. 4.17選定 (三) 3.5ha
94 高知県室戸市吉良川町(在郷町)1997.10.31選定 (一) 18.3ha
95 高知県安芸市土居廓中(武家町)2012. 7. 9選定 (二) 9.2ha
96 福岡県八女市八女福島(商家町)2002. 5.23選定 (二) 19.8ha
97 福岡県八女市黒木(在郷町)2009. 6.30選定 (三) 18.4ha
98 福岡県うきは市筑後吉井(在郷町)1996.12.10選定 (三) 20.7ha
99 福岡県うきは市新川田篭(山村集落)2012. 7. 9選定 (三) 71.2ha
100 福岡県朝倉市秋月(城下町)1998. 4.17選定 (二) 58.6ha
101 佐賀県鹿島市浜庄津町浜金屋町(港町・在郷町)2006. 7. 5 (二) 2.0ha
102 佐賀県鹿島市浜中町八本木宿(醸造町)2006. 7. 5 (一) 6.7ha
103 佐賀県嬉野市塩田津(商家町)2005.12.27選定 (二) 12.8ha
104 佐賀県西松浦郡有田町有田内山(製磁町)1991. 4.30選定 (三) 15.9ha
105 長崎県長崎市東山手(港町)1991. 4.30選定 (二) 7.5ha
106 長崎県長崎市南山手(港町)1991. 4.30選定 (二) 17.0ha
107 長崎県平戸市大島村神浦(港町)2008. 6. 9選定 (二) 21.2ha
108 長崎県雲仙市神代小路(武家町)2005. 7.22選定 (二) 9.8ha
109 大分県日田市豆田町(商家町)2004.12.10選定 (二) 10.7ha
110 大分県杵築市北台南台(武家町)2017.11.28選定 (二) 16.1ha
111 宮崎県日南市飫肥(武家町)1977. 5.18選定 (二) 19.8ha
112 宮崎県日向市美々津(港町)1986.12. 8選定 (二) 7.2ha
113 宮崎県東臼杵郡椎葉村十根川(山村集落)1998.12.25選定 (三) 39.9ha
114 鹿児島県出水市出水麓(武家町)1995.12.26選定 (二) 43.8ha
115 鹿児島県薩摩川内市入来麓(武家町)2003.12.25選定 (二) 19.2ha
116 鹿児島県南九州市知覧(武家町)1981.11.30選定 (二) 18.6ha
117 沖縄県島尻郡渡名喜村渡名喜島(島の農村集落)2000. 5.25選定 (三) 21.4ha
118 沖縄県八重山郡竹富町竹富島(島の農村集落)1987. 4.28選定 (三) 38.3ha

選定基準
 (一) 伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
 (二) 伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
 (三) 伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
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 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、「小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)された日です。
 「小作調停法(こさくちょうていほう)」は、第1次世界大戦後激化した小作争議に対処するため制定された法律でした。
 小作争議がおきた場合、当事者の申立てにより裁判所が調停をおこなう制度であり、調停が成立し、さらに裁判所が認可した場合には裁判上の和解と同等の効力をもち、調停条項の不履行には強制執行がおこなわれることとなります。また、この法律に従い、各府県に地主・小作関係の実情に通じた小作官がおかれ、小作関係の実情調査、争議の予防、また争議の和解にあたって法外調停を図るなどもしました。
 これにより調停に農民組合が介入することが困難となり、地主側は多少の譲歩で争議を解決できるとして歓迎しましたが、小作農側は終始これに反対しています。
 当初は、小作争議がまだ激化していない諸県には適用されなかったものの、1929年(昭和4)以降、沖縄県を除く全府県で施行され、小作官の法外調停を含めれば発生争議件数の半分以上が本法で調停されました。しかし、この法律は、地主的土地所有の優位を保証した明治民法を前提としていたため、小作農に不利に作用することが多かったとされます。
 当時、農民組合側は、小作農の耕作権を公認する「小作法」および小作組合の権利を認める「小作組合法」の制定を要求していましたが、地主を有力な支持基盤とする帝国議会では審議されたものの成立せず、「小作調停法」のみが制定された経緯がありました。
 本法は、何度か修正されたのち、太平洋戦争後の農地改革に伴い、1951年(昭和26)に廃止され、「民事調停法」に代わります。

〇小作農とは?

 自らは土地をほとんどもたないで、土地所有者(地主)から借りて耕作し、小作料を支払う農民をいいます。
 明治時代前期の地租改正・松方デフレ政策を経て、自作農から没落して増えていき、1888年(明治21)には95万戸(全農家の20.6%)、1908年(明治41)には149万戸(全農家の27.6%)にまで増加し、以後も大正時代中期まで漸増したものの、その後少しました。これら農民の生活水準は低く、日本資本主義の低賃金構造を支えるものとなります。
 そして、太平洋戦争後の農地改革によって、大幅に減少し、全農家の数%にまでなりました。

〇小作争議とは?

 地主と小作農との間の小作料、耕作権などの小作関係をめぐって起こった紛争のことです。
 明治維新後、地主的土地所有が形成される過程で散発的に起こりましたが、組織的な運動形態をとるのは1900年(明治33)頃からで、明治時代末には各地で続発しました。しかし、小作争議が本格的に展開したのは、第1次世界大戦後の1920年(大正9)に勃発した経済恐慌からで、農民生活悪化に伴い、全国に広がります。
 1917年(大正6)には85件にすぎなかったものが、1920年(大正9)には408件、1926年(大正15/昭和元)には2,751件に激増しました。その中で、小作農側は、1922年(大正11)に日本農民組合を創立し、地主側は1925年(大正14)に大地主を中心に大日本地主協会を結成して対抗します。
 そして小作農側は、共同耕作、デモなどの戦術を用い、労働者や無産政党とも提携して、地主・官憲による弾圧に抵抗しました。昭和初期には弾圧強化で一時弱まりましたが、昭和恐慌による農村の疲弊によりふたたび激化し、1935~37年には年間6,000件以上の小作争議が起きます。
 ところが、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が進むと、争議の合法性は奪われ、農民組合の解散が相次ぐようになり、小作争議件数は、1941年3,308件、1942年2,756件、1943年2,424件、1944年2,160件と漸減し、衰退しました。
 特に、大阪府山田村、新潟県木崎村、香川県太田村伏石、岡山県藤田農場、秋田県阿仁前田村、岐阜県山添村、秋田県前田村、北海道雨竜村蜂須賀農場などの小作争議は著名です。

☆主要な小作争議一覧

・群馬県強戸村争議(1921~22年)
・岡山県藤田農場争議(1921~30年)
・山梨県鏡中条村争議(1922年)
・新潟県木崎村争議(1922~26年)
・大阪府山田村争議(1922~29年)
・香川県太田村伏石争議(1923年)
・熊本県郡築村争議(1924年)
・秋田県阿仁前田村争議(1925~38年)
・新潟県王番田争議(1926~30年)
・新潟県和田村争議(1926~30年)
・岐阜県山添村争議(1927年)
・北海道雨竜村蜂須賀農場争議(1929~30年)
・長野県五加村争議(1930年)
・山梨県奥野田争議(1930年)
・鳥取県箕蚊屋争議(1932年)
・栃木県阿久津争議(1931~32年)

☆小作争議件数・参加人員の推移

・1917年(大正6)    85件
・1918年(大正7)   256件
・1919年(大正8)   326件
・1920年(大正9)   408件―34,605人参加
・1921年(大正10) 1,680件―145,898人参加
・1922年(大正11) 1,578件―125,750人参加
・1923年(大正12) 1,917件―134,503人参加
・1924年(大正13) 1,532件―110,920人参加
・1925年(大正14) 2,206件―134,646人参加
・1926年(昭和元) 2,751件―151,061人参加
・1927年(昭和2)  2,052件―91,336人参加
・1928年(昭和3)  1,866件―75,136人参加
・1929年(昭和4)  2,434件―81,998人参加
・1930年(昭和5)  2,478件―58,565人参加
・1931年(昭和6)  3,419件―81,135人参加
・1932年(昭和7)  3,414件―61,499人参加
・1933年(昭和8)  4,000件―48,073人参加
・1934年(昭和9)  5,828件―121,031人参加 
・1935年(昭和10) 6,824件―111,164人参加
・1936年(昭和11) 6,804件―77,187人参加
・1937年(昭和12) 6,170件―63,246人参加
・1938年(昭和13) 4,615件―52,817人参加
・1939年(昭和14) 3,578件―25,904人参加
・1940年(昭和15) 3,165件―38,614人参加
・1941年(昭和16) 3,308件―32,289人参加
・1942年(昭和17) 2,756件―33,185人参加
・1943年(昭和18) 2,424件―17,783人参加
・1944年(昭和19) 2,160件―8,213人参加
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