今日は、大正時代の1924年(大正13)に、「小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)された日です。
「小作調停法(こさくちょうていほう)」は、第1次世界大戦後激化した小作争議に対処するため制定された法律でした。
小作争議がおきた場合、当事者の申立てにより裁判所が調停をおこなう制度であり、調停が成立し、さらに裁判所が認可した場合には裁判上の和解と同等の効力をもち、調停条項の不履行には強制執行がおこなわれることとなります。また、この法律に従い、各府県に地主・小作関係の実情に通じた小作官がおかれ、小作関係の実情調査、争議の予防、また争議の和解にあたって法外調停を図るなどもしました。
これにより調停に農民組合が介入することが困難となり、地主側は多少の譲歩で争議を解決できるとして歓迎しましたが、小作農側は終始これに反対しています。
当初は、小作争議がまだ激化していない諸県には適用されなかったものの、1929年(昭和4)以降、沖縄県を除く全府県で施行され、小作官の法外調停を含めれば発生争議件数の半分以上が本法で調停されました。しかし、この法律は、地主的土地所有の優位を保証した明治民法を前提としていたため、小作農に不利に作用することが多かったとされます。
当時、農民組合側は、小作農の耕作権を公認する「小作法」および小作組合の権利を認める「小作組合法」の制定を要求していましたが、地主を有力な支持基盤とする帝国議会では審議されたものの成立せず、「小作調停法」のみが制定された経緯がありました。
本法は、何度か修正されたのち、太平洋戦争後の農地改革に伴い、1951年(昭和26)に廃止され、「民事調停法」に代わります。
〇小作農とは?
自らは土地をほとんどもたないで、土地所有者(地主)から借りて耕作し、小作料を支払う農民をいいます。
明治時代前期の地租改正・松方デフレ政策を経て、自作農から没落して増えていき、1888年(明治21)には95万戸(全農家の20.6%)、1908年(明治41)には149万戸(全農家の27.6%)にまで増加し、以後も大正時代中期まで漸増したものの、その後少しました。これら農民の生活水準は低く、日本資本主義の低賃金構造を支えるものとなります。
そして、太平洋戦争後の農地改革によって、大幅に減少し、全農家の数%にまでなりました。
〇小作争議とは?
地主と小作農との間の小作料、耕作権などの小作関係をめぐって起こった紛争のことです。
明治維新後、地主的土地所有が形成される過程で散発的に起こりましたが、組織的な運動形態をとるのは1900年(明治33)頃からで、明治時代末には各地で続発しました。しかし、小作争議が本格的に展開したのは、第1次世界大戦後の1920年(大正9)に勃発した経済恐慌からで、農民生活悪化に伴い、全国に広がります。
1917年(大正6)には85件にすぎなかったものが、1920年(大正9)には408件、1926年(大正15/昭和元)には2,751件に激増しました。その中で、小作農側は、1922年(大正11)に日本農民組合を創立し、地主側は1925年(大正14)に大地主を中心に大日本地主協会を結成して対抗します。
そして小作農側は、共同耕作、デモなどの戦術を用い、労働者や無産政党とも提携して、地主・官憲による弾圧に抵抗しました。昭和初期には弾圧強化で一時弱まりましたが、昭和恐慌による農村の疲弊によりふたたび激化し、1935~37年には年間6,000件以上の小作争議が起きます。
ところが、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が進むと、争議の合法性は奪われ、農民組合の解散が相次ぐようになり、小作争議件数は、1941年3,308件、1942年2,756件、1943年2,424件、1944年2,160件と漸減し、衰退しました。
特に、大阪府山田村、新潟県木崎村、香川県太田村伏石、岡山県藤田農場、秋田県阿仁前田村、岐阜県山添村、秋田県前田村、北海道雨竜村蜂須賀農場などの小作争議は著名です。
☆主要な小作争議一覧
・群馬県強戸村争議(1921~22年)
・岡山県藤田農場争議(1921~30年)
・山梨県鏡中条村争議(1922年)
・新潟県木崎村争議(1922~26年)
・大阪府山田村争議(1922~29年)
・香川県太田村伏石争議(1923年)
・熊本県郡築村争議(1924年)
・秋田県阿仁前田村争議(1925~38年)
・新潟県王番田争議(1926~30年)
・新潟県和田村争議(1926~30年)
・岐阜県山添村争議(1927年)
・北海道雨竜村蜂須賀農場争議(1929~30年)
・長野県五加村争議(1930年)
・山梨県奥野田争議(1930年)
・鳥取県箕蚊屋争議(1932年)
・栃木県阿久津争議(1931~32年)
☆小作争議件数・参加人員の推移
・1917年(大正6) 85件
・1918年(大正7) 256件
・1919年(大正8) 326件
・1920年(大正9) 408件―34,605人参加
・1921年(大正10) 1,680件―145,898人参加
・1922年(大正11) 1,578件―125,750人参加
・1923年(大正12) 1,917件―134,503人参加
・1924年(大正13) 1,532件―110,920人参加
・1925年(大正14) 2,206件―134,646人参加
・1926年(昭和元) 2,751件―151,061人参加
・1927年(昭和2) 2,052件―91,336人参加
・1928年(昭和3) 1,866件―75,136人参加
・1929年(昭和4) 2,434件―81,998人参加
・1930年(昭和5) 2,478件―58,565人参加
・1931年(昭和6) 3,419件―81,135人参加
・1932年(昭和7) 3,414件―61,499人参加
・1933年(昭和8) 4,000件―48,073人参加
・1934年(昭和9) 5,828件―121,031人参加
・1935年(昭和10) 6,824件―111,164人参加
・1936年(昭和11) 6,804件―77,187人参加
・1937年(昭和12) 6,170件―63,246人参加
・1938年(昭和13) 4,615件―52,817人参加
・1939年(昭和14) 3,578件―25,904人参加
・1940年(昭和15) 3,165件―38,614人参加
・1941年(昭和16) 3,308件―32,289人参加
・1942年(昭和17) 2,756件―33,185人参加
・1943年(昭和18) 2,424件―17,783人参加
・1944年(昭和19) 2,160件―8,213人参加