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 今日は、江戸時代末期の1866年(慶応2)に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂が亡くなった日ですが、新暦では8月29日となります。
 徳川家茂(とくがわ いえもち)は、1846年(弘化3年閏5月24日)に、江戸の紀州(和歌山)藩邸(現在の東京都港区)において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男(母は松平氏みさ)として生まれましたが、幼名は菊千代と言いました。父は生まれる前に亡くなり、1847年(弘化4)に第12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)には、斉彊の死去により、4歳で家督を継いで第13代紀州藩主となります。
 1851年(嘉永4)に元服とて慶福(よしとみ)と名乗り、従三位に叙位しました。1853年(嘉永6年10月23日)に、徳川家定が第13代将軍に就任しましたが、病弱で子がなかったため将軍継嗣問題が起きます。
 井伊直弼らの擁立で、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を抑え、1858年(安政5年6月20日)に家定の世子となりました。その後、家定の死去に伴い、同年10月25日に第14代将軍に就任し、名を家茂と改めます。
 1860年(万延元)に桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周、安藤信正らの画策により、公武合体を推進すべく、1862年(文久2)に孝明天皇の皇妹・和宮と結婚(和宮降嫁)しました。1863年(文久3)に朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛し、翌年の2回目の上洛時には、従一位に昇叙し、右大臣となります。
 この年、第1次長州征伐が始まり、翌年の第2次長州征伐の折りには、みずからも大軍を率いて、3度目の上洛の後、大坂城の征長軍本営に入りました。しかし、幕府軍敗戦の報が相次ぐうちに、1866年(慶応2年7月20日)、大坂城内において数え年21歳の若さで病死します。

〇徳川家茂関係略年表(日付は旧暦です)

・1846年(弘化3年閏5月24日) 江戸の紀州藩邸において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男として生まれる
・1847年(弘化4年4月22日) 第12代紀州藩主徳川斉彊の養子となる
・1849年(嘉永2年閏4月2日) 斉彊の死去に伴い第13代紀州藩主となる
・1851年(嘉永4年10月9日) 元服して慶福と名乗り、常陸介に任官、従三位に叙位する
・1853年(嘉永6年10月23日) 徳川家定が第13代将軍に就任する
・1855年(安政2年12月15日) 参議に補任する
・1858年(安政5年6月20日) 大老井伊直弼らに推されて、第13代将軍家定の世子となる
・1858年(安政5年10月24日) 正二位権大納言に昇叙転任する
・1858年(安政5年10月25日) 第14代将軍に就任し、内大臣に転任、名を家茂と改める
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺される
・1862年(文久2年2月11日) 仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹・和宮と結婚する
・1862年(文久2年6月) 慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任じて幕政の改革を行なう
・1863年(文久3年3月4日) 朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛する
・1864年(文久4年1月15日) 2度目の上洛をする
・1864年(文久4年1月21日) 従一位に昇叙し、右大臣に転任する
・1964年(元治元年7月) 蛤御門の変が起ると薩摩と共同して長州藩兵を退ける
・1864年(元治元年8月2日) 第1次長州征伐が始まる
・1865年(慶応元年閏5月22日) 第2次長州征伐のため、3度目の上洛をする
・1865年(慶応元年閏5月) 第2次長州征伐のため大坂城に入る
・1865年(慶応元年10月1日) 朝廷に将軍職の辞表を提出、江戸東帰を発表する
・1865年(慶応元年10月7日) 将軍職の辞表を正式に撤回する
・1866年(慶応2年6月7日) 長州軍と幕府軍とが開戦する
・1866年(慶応2年7月20日) 大坂城で脚気衝心のため、数え年21歳で亡くなる