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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の亡くなった日です。
 吉野秀雄(よしの ひでお)は、明治時代後期の1902年(明治35)7月3日に、群馬県高崎市で、織物問屋の株式会社吉野藤を営む、吉野家の次男として生まれました。1909年(明治42)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校を経て、1915年(大正4)に高崎商業学校に入学します。
 在学中は国文学に親しみ、正岡子規や長塚節について学び、1920年(大正9)に卒業後、慶應義塾大学理財科予科に入学、経済学部に進みました。しかし、肺結核を患って帰郷し、大学を中退せざるを得なくなり、病床で正岡子規の作品、歌論を読んで感激して、作歌を始めます。
 1926年(昭和元)に栗林はつと結婚、第1歌集『天井擬視』を刊行、1931年(昭和6)には、療養のため鎌倉に転地し、永住の地となりました。その後、会津八一の歌集『南京新唱』に感銘を受け、1933年(昭和8)より師事し、1936年(昭和11)には、第2歌集『苔径集』を刊行します。
 この年から毎月「鎌倉短歌会」を開催し、『万葉集』も定期的に講義、太平洋戦争後の1946年(昭和21)からは、鎌倉アカデミアで教えるようになりました。雑誌『創元』の創刊号に「短歌百余章」を発表、『早梅集(そうばいしゅう)』(1947年)、『寒蝉集(かんせんしゅう)』(1949年)の刊行によって、歌壇に地位を占めるようになります。
 1952年(昭和27)以降歌誌『砂丘』の選を担当する一方、良寛や「万葉集」の研究も進め、『良寛歌集』(1952年)、『良寛和尚の人と歌』(1957年)などを刊行しました。その後、『吉野秀雄歌集』(1958年)で第10回読売文学賞、随筆集『やはらかな心』(1966年)、『心のふるさと』(1967年)で第1回迢空賞、歌集『含紅集(がんこうしゅう)』(1967年)で第18回芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 書家としても知られましたが、晩年は病床に就き、1967年(昭和42)7月13日に、鎌倉において、65歳で亡くなりました。

<代表的な歌>
・「病む妻の 足頸(あしくび)にぎり 昼寝する 末の子をみれば 死なしめがたし」(寒蝉集)
・「彼の世より 呼び立つるにや この世にて 引き留(と)むるにや 熊蝉(くまぜみ)の声」
・「死をいとひ 生をもおそれ 人間の ゆれ定まらぬ こころ知るのみ」

〇吉野秀雄の主要な著作

・第1歌集『天井擬視』(1926年)
・第2歌集『苔径集』(1936年)
・研究書『鹿鳴集歌解』(1947年)
・歌集『早梅集(そうばいしゅう)』(1947年)
・歌集『寒蝉集』(1949年)
・『良寛歌集』(1952年)
・研究書『良寛和尚の人と歌』(1957年)
・歌集『吉野秀雄歌集』(1958年)第10回読売文学賞受賞
・随筆集『やはらかな心』(1966年)第1回迢空賞受賞
・随筆集『心のふるさと』(1967年)第1回迢空賞受賞
・歌集『含紅集(がんこうしゅう)』(1967年)第18回芸術選奨文部大臣賞受賞
・研究書『良寛 歌と生涯』(1975年)