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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、江戸幕府の第13代将軍徳川家定の亡くなった日ですが、新暦では8月13日となります。
 徳川家定(とくがわ いえさだ)は、1824年(文政7年4月8日)に、江戸城内において、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の四男(母は跡部氏美津)として生まれましたが、幼名は政之助と言いました。1828年(文政11)に元服して家祥を名乗り、正二位権大納言となり、兄たちがすべて早世したため、1837年(天保8)に世子に定められ、従一位に昇叙し、右近衛大将を兼任します。
 1841年(天保12)に大御所だった徳川家斉(第11代将軍)が亡くなると、将軍継嗣とされ、西ノ丸に移りました。1853年(嘉永6)のペリー初来航による騒然たる情勢の中、同年6月22日に父・家慶が亡くなると、7月に宗家を相続、10月23日に将軍宣下を受け、家定と改名します。
 生来虚弱であったため、老中阿部正弘が補佐し、水戸の徳川斉昭を顧問格として政務にあたり、翌年1月16日に、ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、同年3月3日に「日米和親条約」に調印しました。1857年(安政4年6月17日)に正弘が死去すると、その後は老中堀田正睦によって主導され、同年10月にはアメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見します。
 子がいなかったため、この頃から将軍継嗣問題が起き、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派と紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)を推す、井伊直弼ら南紀派が対立しました。翌年、老中堀田正睦が条約勅許を得ることに失敗したのちの4月には井伊直弼を大老に任じて幕政指導を委ね、慶福を継嗣とすることとなります。
 6月19日には、「日米修好通商条約」調印を強行し、一橋派の大名を処分、政局紛糾の中で、1858年(安政5年7月6日)に、江戸城内において、数え年35歳で病死しました。

〇徳川家定関係略年表(日付は旧暦です)

・1824年(文政7年4月8日) 江戸城内において、第12代将軍徳川家慶の四男(母は跡部氏美津)として生まれる
・1828年(文政11年4月4日) 元服して家祥を名乗り、正二位権大納言となる
・1837年(天保8年9月2日)  従一位に昇叙し、右近衛大将を兼任する
・1841年(天保12年) 大御所だった徳川家斉(第11代将軍)が亡くなると、将軍継嗣とされ、西ノ丸に移る
・1853年(嘉永6年6月3日) ペリーが浦賀に初来航する
・1853年(嘉永6年6月22日) 父・家慶が亡くなる
・1853年(嘉永6年7月) 宗家を相続する
・1853年(嘉永6年10月23日) 将軍宣下を受け、第13代将軍となる
・1853年(嘉永6年11月23日) 家定と改名する
・1854年(嘉永7年1月16日) ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日する
・1854年(嘉永7年3月3日) 「日米和親条約」に調印する
・1857年(安政4年6月17日) 老中阿部正弘が死去する
・1857年(安政4年10月) アメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見する
・1858年(安政5年4月) 井伊直弼を大老に任じて幕政指導を委ねる
・1858年(安政5年6月19日) 「日米修好通商条約」調印を強行する
・1858年(安政5年7月5日) 一橋派の大名を処分する
・1858年(安政5年7月6日) 江戸城内において、数え年35歳で病死する