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 今日は、鎌倉時代の1215年(建保3)に、僧侶・日本臨済宗の開祖栄西の亡くなった日(6月5日説あり)ですが、新暦では8月1日となります。
 栄西(えいさい)は、平安時代後期の1141年(永治元年4月20日)に、備中国(現在の岡山県)において、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として生まれましたが、「ようさい」とも読み、字を明庵と言いました。
 1148年(久安4)、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられ、1154年(久寿元)に14歳で比叡山延暦寺にて出家得度し、密教を学びます。その後比叡山を出て、備前国日応山などの山林・霊場で密教的苦行を重ね、1167年(仁安2)に伯耆大山の基好のもとで勉学中唐本『法華経』に接して入宋の決意を固め、翌年に最初の入宋を果たします。
 天台山万年寺、阿育王山などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来し、故郷方面で6年間巡錫しました。1175年(安元元)頃、ふたたび九州に赴き、筑前国今津の誓願寺などに滞在すること10年に及びます。
 1187年(文治3)に47歳で2回目の入宋を実現し、天台山、天童山で臨済宗黄竜派の禅を受法して、1191年(建久2)に帰国したことで、日本禅宗初祖とされました。また、その際に宋で入手した茶の種を持ち帰って栽培を始め、日本に喫茶の習慣を広め、茶祖とも称されます。
 筑前誓願寺において布教活動を始め、1194年(建久5)には禅寺感応寺 (鹿児島県出水市)を建立しました。1198年(建久9)に京都において、『興禅護国論』を著し、無用の摩擦を避けて、1199年(正治元)に一時、都を去って鎌倉に布教の新天地を求めます。
 1200年(正治2)に北条政子建立の寿福寺の住職に招聘され、1202年(建仁2)には鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立、天台・密教・禅の三宗兼学の道場としました。1206年(建永元)に重源没後に、そのあとを受けて東大寺勧進職に就任し、1212年(建暦2)に法印に叙任され、1213年(建保元)には権僧正に栄進します。
 しかし、1215年(建保3年7月5日)に、鎌倉において、数え年75歳で亡くなりました。

〇栄西の主要な著作

・『興禅護国論』(1198年)
・『一代経論釈』
・『喫茶養生記』
・『入唐縁起』
・『出家大綱』
・『菩提心論口決』
・『日本仏法中興願文』

〇栄西関係略年表(日付は旧暦です)

・1141年(永治元年4月20日) 備中国の吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として生まれる
・1148年(久安4年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる
・1154年(久寿元年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度し、密教を学ぶ
・1162年(応保2年) いったん帰郷して修行した後、再び叡山に入って灌頂を受ける
・1167年(仁安2年) 伯耆大山の基好のもとで勉学中唐本『法華経』に接して入宋の決意をする
・1168年(仁安3年) 博多より日宋貿易の商船に乗じて、最初の入宋を果たす
・1168年(仁安3年) 6ヶ月後、東大寺の俊乗房重源と共に帰国する
・1175年(安元元年)頃 ふたたび九州に赴く
・1187年(文治3年) 47歳で2回目の入宋を実現する
・1191年(建久2年) 天台山万年寺の虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受ける
・1191年(建久2年) 帰国し、筑前誓願寺において布教活動を始める
・1194年(建久5年) 禅寺感応寺 (鹿児島県出水市)を建立する
・1194年(建久5年) 布教のために上京する
・1195年(建久6年) 叡山衆徒の反対で、達磨宗の大日房能忍と共に弘法を停止される
・1195年(建久6年) 博多に安国山聖福寺創建する
・1198年(建久9年) 京都において、『興禅護国論』を著す
・1199年(正治元年) 一時、都を去って鎌倉に布教の新天地を求める
・1200年(正治2年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘される
・1202年(建仁2年) 鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立する
・1206年(建永元年) 重源没後に、そのあとを受けて東大寺勧進職に就任する
・1212年(建暦2年) 法印に叙任される
・1213年(建保元年) 権僧正に栄進する
・1215年(建保3年7月5日) 鎌倉において、数え年75歳で亡くなる