新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代の1301年(正安3)に、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれましたが、小太郎とも言いました。1318年(文保2)に父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となります。
1332年(正慶元/元弘2)に河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じましたが、護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国しました。翌年討幕の兵を挙げ、関東各地の反幕府勢力を糾合し、鎌倉街道を武蔵に進撃します。
小手指原(現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、同年5月22日鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼしました。その功により、後醍醐天皇の建武新政では、越後守・上野介などや武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐(のちに左近衛中将)、従四位上の官位を得ます。
やがて、足利尊氏と激しく対立するようになり、翌年の中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃しました。箱根竹ノ下の戦いには敗れたものの、その直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収めて、一時は尊氏を九州に敗走させます。
しかし、1336年(延元元/建武3)に再起した尊氏に兵庫で敗れて、京都を占領されると、恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠ります。落城前に脱出して再挙をはかりますが、1338年(暦応元/延元3年閏7月2日)に、斯波高経との藤島の戦い(現在の福井県足羽郡藤島)において、数え年38歳で討ち死にしました。
〇新田義貞関係略年表(日付は旧暦です)
・1301年(正安3年) 上野国新田荘を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれる
・1318年(文保2年) 父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となる
・1332年(正慶元/元弘2年) 河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じる
・1333年(正慶2/元弘3年) 護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国する
・1333年(正慶2/元弘3年5月8日) 討幕の兵を挙げ、鎌倉街道を武蔵に進撃する
・1333年(正慶2/元弘3年5月11日) 小手指原(現在の埼玉県所沢市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月15日) 分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼす
・1333年(正慶2/元弘3年8月5日) 従四位上に叙され、左馬助に任官する
・1333年(正慶2/元弘3年10月) 播磨守となる
・1334年(正慶3/建武元年11月) 中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃する
・1334年(正慶3/建武元年12月) 箱根竹ノ下の戦いには敗れる
・1335年(正慶4/建武2年1月) 上洛した尊氏を迎撃し、京都合戦で勝利を収める
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 再起した尊氏に湊川の戦いで敗れて、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都を占領される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ケ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 斯波高経との藤島の戦いにおいて、数え年38歳で討ち死にする