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 今日は、江戸時代後期の1787年(天明7)に、江戸幕府老中・松平定信が、享保の改革に倣うよう各役人に訓戒し、寛政の改革の始まった日ですが、新暦では8月13日となります。
 寛政の改革(かんせいのかいかく)は、1787年(天明7)から1793年(寛政5)にかけて、江戸幕府11代将軍徳川家斉のもとで、老中松平定信が主導して行った幕政改革で、享保の改革、天保の改革と共に江戸時代の三大改革の一つとされてきました。
 天明の大飢饉による農村の疲弊により、一揆や打ちこわしが続発し、田沼時代の腐敗・失政による幕藩体制の危機的状況の回復を図ったものです。享保の改革を理想として行われ、商業重視の政策を改め、農業を主とする政策を実施、士風を刷新し、思想統制・文武奨励による幕府威信の回復を特徴としていました。
 主な内容は、倹約、備荒貯蓄の奨励の「七分金積立法」、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐令」、「風俗匡正令」、「物価引下令」、「人足寄場設置令」、「寛政異学の禁」、文武両道を奨励などです。一時的に幕政は引き締まりましたが、当初期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に定信は老中を辞すことになり、頓挫しました。
 その後もこの改革方針は、松平信明などの遺老たちにより、幕政に引き継がれることにはなります。庶民は、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄しました。

〇寛政の改革の主要なもの一覧

<経済政策>

・「囲米の制」
 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に社倉・義倉を築かせ、1万石につき50石の穀物の備蓄を命じる
・「旧里帰農奨励令」
 江戸へ流入していた地方出身の農民達に旅費を支給し帰農を奨励する
・「札差棄捐令」
 旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じる
・猿屋町会所
 「棄捐令」によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済する
・「人足寄場設置令」
 無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した寄場で職業指導する
・勘定所御用達の登用
 江戸の豪商10名を登用する
・「七分金積立法」
 町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金とする
・「倹約令」
 贅沢品を取り締まる倹約の徹底を強いた

<学問・思想>

・「寛政異学の禁」
 朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止する
・「処士横議の禁」
 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止し、海防学者の林子平などが処罰される
・「出版統制令」
 洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰される

<その他>

・大奥改革に着手
 8人の上臈御年寄の老女のなかで5人が交代となる
・外交政策
 ロシアの使節アダム・ラクスマンに対し、即時の通商開始を拒絶し、江戸湾、蝦夷地の海防強化を命令する

〇松平定信とは?

 江戸時代の大名・老中で、「寛政の改革」の主導者です。江戸時代中期の1759年1月15日(宝暦8年12月27日)に、江戸において、御三卿の田安徳川家の初代当主だった父・田安宗武(むねたけ)の7男(母は香詮院殿)として生まれましたが、幼名は賢丸といいました。
 1774年(安永3)白河藩主松平定邦の養子となり、翌年世継、1783年(天明3)には家督を継いで白河11万石の藩主となって、従四位下、越中守に叙任されます。天明の大飢饉に際し、上方から食糧を緊急輸送してこれを救済し、倹約令を出して藩の財政支出を抑制、家臣の学問・武芸を奨励するとともに、農民には間引きを禁じて農村人口の増加を図って殖産政策を推進しました。これらによって、藩財政を建て直し、名君と称されるようになります。
 田沼意次失脚後の1787年(天明7)に、徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座、侍従兼任となり、翌年には将軍輔佐ともなりました。幕政の建て直しをはかり、いわゆる「寛政の改革」を断行し、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐(きえん)令」、「風俗匡正(きょうせい)令」、「物価引下令」、「人足寄場(よせば)設置令」、「寛政異学の禁」などを実施します。
 しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に老中を辞しました。庶民にも「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄されています。
 その後は、白河藩の藩政に専念し、藩校立教館の拡充や江戸湾防備のため、房総沿岸に台場を築造したりしたものの、1812年(文化9)に嫡子定永(さだなが)に封地を譲って隠居し、楽翁と号しました。
 晩年は江戸築地の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送りますが、朱子学ほかの学問に通じ、『花月草紙』、『楽亭筆記』、歌集『三草集』、『集古十種』、『古画図考』、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』などを著します。その中で、1829年(文政12年5月13日)に、江戸において、数え年72歳で亡くなりました。