ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年06月

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 今日は、江戸時代中期の1734年(享保19)に、読本作者・歌人・国学者上田秋成の生まれた日ですが、新暦では7月25日となります。
 上田秋成(うえだ あきなり)は、大坂曾根崎において、母・松尾ヲサキの私生児(父は定かでない)として生まれましたが、幼名は仙次郎(通称は東作)と言いました。1737年(元文2)、4歳のときに堂島永来町(現在の大阪市北区堂島1丁目)で、紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったものの、翌年に痘瘡にかかり生死をさまよいます。
 青年時代は遊蕩に耽ったとされますが、20歳前後から俳諧に親しみ、高井几圭に師事し、漁焉(ぞえん)の俳号で活躍しました。1760年(宝暦10)に27歳で植山たまと結婚、翌年養父が死亡して嶋屋を継ぎます。
 その一方で、浮世草子『諸道聴耳世間猿 』(1766年)、『世間妾形気 』(1767年)、読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)などを書きながら、賀茂真淵一門の国学者・加藤宇万伎にも師事しました。
 しかし、1771年(明和8)に嶋屋が火事で類焼して破産、加島稲荷の神職方に寄寓して医術を学び、1776年(安永5)に大坂尼崎で開業します。その傍らで、国学研究にも精進し、1786年(天明6)から翌年に、本居宣長と古代の音韻および日の神をめぐる論争を行いました。
 この頃から大坂近郊の淡路庄村に隠遁し、著述活動を続けたものの、1790年(寛政2)に57歳で左眼を失明しました。晩年は京都に移って、貧苦の中で国学書や随筆集『胆大小心録』や読本『春雨物語』(ともに1808年)などを著しましたが、 1809年(文化6年6月27日)に、京都において、数え年76歳で亡くなっています。

〇上田秋成の主要な著作

・浮世草子『諸道聴耳世間猿 (しょどうききみみせけんざる) 』(1766年)
・浮世草子『世間妾形気 (てかけかたぎ) 』(1767年)
・読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)
・源氏物語注釈『ぬば玉の巻』(1779年)
・考証『漢委奴国王金印考』(1784年)
・研究『歌聖伝』(1785年)
・戯作『書初機嫌海(かきぞめきげんかい)』(1787年)
・俳文法書『也哉鈔(やかなしょう)』(1787年)
・随筆集『癇癖談 (くせものがたり) 』(1791年成立、1808年刊)
・評論集『安々言(やすみごと)』(1792年)
・匙茶道書『清風瑣言』(1794年)
・研究書『霊語通』(1797年)
・『落久保物語』(1799年)
・『献神和歌帖』(1801年)
・万葉集論『冠辞続貂(かんじぞくちょう)』(1801年)
・古代史論『遠駝延五登(おだえごと)』(1803年頃)
・万葉集注釈『金砂(こがねいさご)』(1804年)
・万葉集注釈『金砂剰言』(1804年)
・『七十二侯』(1805年)
・歌文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』(1805年)
・読本『ますらを物語』(1806年)
・読本『春雨物語』(1808年)
・書簡集『文反故(ふみほうぐ)』(1808年)
・随筆集『胆大小心録』(1808年)
・随筆集『自像筥記』(1808年)
・『異本胆大小心録』(1809年)
・『俳調義論』(1809年)
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 今日は、飛鳥時代の672年(弘文天皇元)に、出家・隠棲していた大海人皇子(後の天武天皇)が弘文天皇を討つ為に吉野を出発し、壬申の乱が始まった日ですが、新暦では7月24日となります。
 壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇が亡くなった後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、皇位継承をめぐって争われた内乱でした。
 大化改新を指導(大海人皇子が補佐)し、668年(天智天皇7) に即位した天智天皇は、671年(天智天皇10)正月に、大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出しました。同年10月大海人皇子は病床の天皇に招かれ、後事を託されましたが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して、妻(後の持統天皇)子やわずかの従者とともに吉野宮に引退します。
 同年12月に天智天皇が近江大津宮で病死し、大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となりました。672年(弘文天皇元年6月24日)に、近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かい、野上(現在の岐阜県関ヶ原町)に行宮を置き、本拠とします。東国の兵を集め、大和で呼応した豪族らとともに、同年7月2日に近江京へ進撃し、7月22日最後の一線であった瀬田川の戦いに勝利しました。
 その結果、大津宮は陥落し、大友皇子は自害、右大臣中臣金は斬刑、左大臣蘇我赤兄は流刑となります。勝利した大海人皇子は、翌年2月に飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
 以後大化の改新が一層強力に推進されて律令体制が整備され、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形成されていきます。

〇壬申の乱関係略年表(日付は旧暦です)

・668年(天智天皇7年1月3日) 天智天皇が即位する
・671年(天智天皇10年正月) 大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出す
・671年(天智天皇10年9月) 天智天皇が病の床に就く
・671年(天智天皇10年10月17日) 大海人皇子は病床の天智天皇に招かれ、後事を託されるが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して吉野宮に引退する
・671年(天智天皇10年12月3日) 天智天皇が近江大津宮で病死する
・671年(弘文天皇元年12月5日) 大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となる
・672年(弘文天皇元年6月22日) 大海人皇子は使者を美濃国へ向かわせる
・672年(弘文天皇元年6月24日) 近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かう
・672年(弘文天皇元年7月2日) 軍勢を二手にわけて、近江京へ進撃を始める
・672年(弘文天皇元年7月7日) 息長の横河で戦端を開く
・672年(弘文天皇元年7月22日) 瀬田川の戦いに大海人皇子方が勝利する
・672年(弘文天皇元年7月23日) 大津宮は陥落し、大友皇子(弘文天皇)は自害する
・672年(天武天皇元年8月25日) 右大臣中臣金らが斬刑に処せられる
・672年(天武天皇元年9月) 大海人皇子は大和の飛鳥へ帰り、浄御原の新宮に入る
・673年(天武天皇2年2月27日) 大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる

〇大海人皇子(天武天皇)とは?

 飛鳥時代に活躍した第40代とされる天皇です。生年は明らかではありません(631年説がある)が、父・舒明天皇の第3皇子(母・皇極天皇)として生まれ、名は大海人 (おおあま) と言いました。
 668年(天智天皇7)に、兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助けたとされています。671年(天智天皇10)に重病となった天智天皇が後事を託そうとしましたが、病気平癒祈願ため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもりました。
 天智天皇の死後、672年(弘文天皇元)6月に挙兵し、鈴鹿と不破の関をふさいで東国の兵を動員して戦い、約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)を自殺させて勝利を得ます(壬申の乱)。
 翌年2月27日、飛鳥浄御原宮にて即位し、天智天皇の子の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后としました。天皇中心の政治の確立をめざして、改新事業の推進、律令体制の強化に努め、675年(天武天皇4)には、諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行います。
 681年(天武天皇10)に、「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始めました。豪族たちを統制するための官僚化にも努め、684年(天武天皇13)に八色の姓の制を定め、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定します。
 このように、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を整備してきましたが、686年(朱鳥元)に飛鳥で亡くなり、墓所は檜隈大内陵(現在の奈良県明日香村)として造られました。
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 今日は、江戸時代後期の1794年(寛政6)に、大名・老中で天保の改革の主導者水野忠邦の生まれた日ですが、新暦では7月19日となります。
 水野 忠邦(みずの ただくに)は、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれましたが、幼名は於菟五郎と言いました。1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。
 1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
 1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
 しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
 そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。

〇天保の改革とは?

 江戸時代後期の1841年(天保12)から、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の厚い信任を受け、老中首座の水野忠邦が主導した幕政改革で、享保の改革、寛政の改革と共に江戸幕府三大改革の一つとされています。
 内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。
 しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。

〇水野忠邦関係略年表(日付は旧暦です)

・1794年(寛政6年6月23日) 唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれる
・1805年(文化2年) 長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となる
・1807年(文化4年9月7日) 元服し、従五位下・式部少輔に叙位・任官する
・1812年(文化9年8月) 父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第3代藩主となり、和泉守に遷任される
・1815年(文化12年11月12日) 江戸幕府の奏者番となる
・1817年(文化14年8月) 遠江国浜松6万石に移封される、
・1817年(文化14年9月10日) 寺社奉行兼務となり、左近衛将監に遷任される
・1825年(文政8年) 大坂城代となり、従四位下に昇位する
・1826年(文政9年) 京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙する
・1828年(文政11年) 西丸老中となる
・1834年(天保5年) 本丸老中となる
・1837年(天保8年4月) 家斉が隠居し、第12代将軍に家慶が就く
・1839年(天保10年) 老中首座へと登り詰める
・1841年(天保12年) 大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行する
・1843年(天保14年3月) 「人返し令」を発布する
・1843年(天保14年6月1日) 「上知令」を発布する
・1843年(天保14年閏9月7日) 「上知令」を撤回する
・1843年(天保14年閏9月13日) 老中を罷免されて失脚する
・1844年(弘化元年5月) 江戸城本丸が火災により焼失する
・1844年(弘化元年6月21日) 老中首座に復職する
・1845年(弘化2年2月22日) 老中を辞職する
・1845年(弘化2年9月2日) 在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となり、1万石没収される
・1845年(弘化2年11月30日) 出羽国山形5万石に転封させられる
・1851年(嘉永4年2月10日) 江戸において、数え年58歳で亡くなる
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 今日は、昭和時代後期の1972年(昭和47)に、「自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布された日です。
 「自然環境保全法(しぜんかんきょうほぜんほう)」は、自然環境の適正な保全を総合的に推進し、国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする法律で、1973年(昭和48)から施行されました。その内容は、自然環境保全基本方針の制定、原生自然環境保全地域の指定と保全、自然環境保全地域の指定、保全および生態系維持回復事業、都道府県による自然環境保全地域の指定と保全などについて定めています。
 この背景には、太平洋戦争後の高度経済成長に伴って、1960年代以降、全国的な都市化・工業化による公害と自然破壊が深刻化したことがありました。特に、1962年(昭和57)の「新産業都市建設促進法」と「全国総合開発計画」等により、地域開発が本格化すると、各地で公害が問題となり、各自治体が相次いで「公害規制条例」や「自然保護条例」を制定するようになります。その中で、自然保護のための基本理念を明確にし、自然保護の政策を強化するため、自然環境の保全を全国的に総合的かつ統一的に推進するための基本法として制定されました。
 その後、1993年(平成5)の「環境基本法」制定に伴い一部改正され、さらに、2009年(平成21)に、同法の目的に生物の多様性の確保を明記するとともに、生物の保護強化や開発を規制できる制度を盛り込んだ改正法が成立しています。
 またこの法律では、自然環境保全基礎調査(緑の国勢調査)をおおむね 5年ごとに行なうことが、国の責務として定められましたが、この調査は、1973年(昭和48)から実施され、その結果に基づいて保全地区の指定や拡張・変更・保全計画などが行なわれてきました。
 以下に、「自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)の一部を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)

第一章 総則

(目的)

第一条 この法律は、自然公園法(昭和三十二年法律第百六十一号)その他の自然環境の保全を目的とする法律と相まつて、自然環境を保全することが特に必要な区域等の生物の多様性の確保その他の自然環境の適正な保全を総合的に推進することにより、広く国民が自然環境の恵沢を享受するとともに、将来の国民にこれを継承できるようにし、もつて現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。

(国等の責務)

第二条 国、地方公共団体、事業者及び国民は、環境基本法(平成五年法律第九十一号)第三条から第五条までに定める環境の保全についての基本理念にのつとり、自然環境の適正な保全が図られるように、それぞれの立場において努めなければならない。

(財産権の尊重及び他の公益との調整)

第三条 自然環境の保全に当たつては、関係者の所有権その他の財産権を尊重するとともに、国土の保全その他の公益との調整に留意しなければならない。

(基礎調査の実施)

第四条 国は、おおむね五年ごとに地形、地質、植生及び野生動物に関する調査その他自然環境の保全のために講ずべき施策の策定に必要な基礎調査を行うよう努めるものとする。

(地域開発施策等における配慮)

第五条 国は、地域の開発及び整備その他の自然環境に影響を及ぼすと認められる施策の策定及びその実施に当たつては、自然環境の適正な保全について配慮しなければならない。

(以下略)

   「法令全集」より
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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、「鉄道敷設法」(明治25年法律第4号)が制定された日です。
 鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、日本に将来建設すべき鉄道路線を定めた法律でした。日清戦争後の第2次鉄道熱のなかで、主として幹線鉄道から分岐する多数の中小鉄道会社が設立されます。この間、政府は1887年(明治20)に「私設鉄道条例」を制定して認可の手続、会社設立の条件などを規定しつつ、1889年(明治22)に新橋~神戸間の東海道本線を明治政府の手によって完成させました。その一方で、財源難の政府に代わって、民間資金による鉄道建設が各地で盛んに行われましたが、経営不振で政府に買上げを望むところもでてきます。
 そこで、鉄道庁長官井上勝が1891年(明治24)7月に、「鉄道政略ニ関スル議」を建議し、政府も民営鉄道を買い上げて幹線鉄道網を形成する基本方針を固めました。帝国議会の審議を経て、翌年6月21日に、この法律が制定され、国鉄と私鉄とに分かれて進められてきた鉄道建設を軍事上、行政上の観点から全国的な規模で統一することとなりますが、実態は民営鉄道による予定線建設を容認する内容に法案修正されます。その中で、今後全国に敷設すべき鉄道路線を33区間一括指定し、特に重要な9区間を今後12年以内に敷設する「第一期」路線としました。
 その後、民営鉄道として建設された多くの路線は、1906年(明治39)制定の「鉄道国有法」によって国有化されることになります。
 しかし、1920年(大正9)に鉄道省が発足した頃には、この法律に掲げられただいたいの路線が完成したので、同法を廃止し、新たに1922年(大正11)4月11日に「鉄道敷設法」(大正11年法律第37号)が制定(通称:改正鉄道敷設法)され、地方路線をすべて予定線(149路線)として入れ込んだ全国鉄道網が目指されることとなりました。
 これは、1987年(昭和62)4月1日に「日本国有鉄道改革法等施行法」が施行されたことにより廃止されていますが、多くの地方路線は未開業のままとなります。
 尚、北海道については、1896年(明治29)5月14日に「北海道鉄道敷設法」(明治29年法律第93号)が制定されました。

〇「鉄道敷設法」の予定鉄道線路

・神奈川県下八王子若ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道(中央本線)
・長野県下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ線路ニ接続スル鉄道(篠ノ井線)
・山梨県下甲府ヨリ靜岡県下岩淵ニ至ル鉄道(身延線)
・岐阜県下岐阜若ハ長野県下松本ヨリ岐阜県下高山ヲ経テ富山県下富山ニ至ル鉄道(高山本線・北陸線)
・福井県下敦賀ヨリ石川県下金沢ヲ経テ富山県下富山ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ石川県下七尾ニ至ル鉄道(北陸本線の一部・七尾線)
・富山県下富山ヨリ新潟県下直江津ニ至ル鉄道(北陸本線)
・新潟県下直江津又ハ群馬県下前橋若ハ長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟及新発田ニ至ル鉄道(信越本線)
・新潟県下新発田ヨリ山形県下米沢ニ至ル鉄道若ハ新潟県下新津ヨリ福島県下若松ヲ経テ白河、本宮近傍ニ至ル鉄道(米坂線・磐越西線・奥羽線)
・福島県下福島近傍ヨリ山形県下米沢及山形、秋田県下秋田青森県下弘前ヲ経テ青森ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ山形県下酒田ニ至ル鉄道(奥羽本線・陸羽西線)
・宮城県下仙台ヨリ山形県下天童若ハ宮城県下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ経テ山形県下舟形町ニ至ル鉄道(仙山線・石巻線・陸羽東線)
・岩手県下黒沢尻若ハ花巻ヨリ秋田県下横手ニ至ル鉄道(北上線)
・岩手県下盛岡ヨリ宮古若ハ山田ニ至ル鉄道(山田線)
・東京府下上野ヨリ千葉県下千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道 (総武本線・内房線の一部)
・茨城県下水戸ヨリ福島県下平ヲ經テ宮城県下岩沼ニ至ル鉄道(常磐線の一部)
・奈良県下奈良ヨリ三重県下上柘植ニ至ル鉄道(関西本線の一部)
・大阪府下大阪若ハ奈良県下上八木又ハ高田ヨリ五條ヲ経テ和歌山県下和歌山ニ至ル鉄道(関西本線の一部)
・京都府下京都ヨリ五條ヲ経テ奈良県下奈良ニ至ル鉄道(奈良線)
・京都府下京都ヨリ舞鶴ニ至ル鉄道(山陰本線の一部・舞鶴線)
・広島県下三原ヨリ山口県下赤間関ニ至ル鉄道(山陽本線の一部)
・広島県下海田市ヨリ呉ニ至ル鉄道(呉線の一部)
・京都府下舞鶴ヨリ兵庫県下豊岡、鳥取県下鳥取、島根県下松江、浜田ヲ経テ山口県下山口近傍ニ至ル鉄道(山陰本線・山口線の一部)
・兵庫県下姫路ヨリ生野若ハ笹山ヲ経テ京都府下舞鶴又ハ園部ニ至ル鉄道若ハ兵庫県下土山ヨリ京都府下福知山ヲ経テ舞鶴ニ至ル鉄道(播但線・加古川線)
・兵庫県下姫路近傍ヨリ鳥取県鳥取ニ至ル鉄道又ハ岡山県下岡山ヨリ津山ヲ経テ鳥取県下米子及境ニ至ル鉄道若ハ岡山県下倉敷又ハ玉島ヨリ鳥取県境ニ至ル鉄道(播但線・山陰本線の一部・智頭線・因美線・津山線・伯備線・境線)
・広島県下広島ヨリ島根県下浜田ニ至ル鉄道(可部線の一部)
・香川県下琴平ヨリ高知県下高知ヲ経テ須崎ニ至ル鉄道(土讃線の一部)
・徳島県下徳島ヨリ前項ノ線路ニ接続スル鉄道(徳島線)
・香川県下多度津ヨリ愛媛県下今治ヲ経テ松山ニ至ル鉄道(予讃線の一部)
・佐賀県下佐賀ヨリ長崎県下佐世保及長崎ニ至ル鉄道(長崎本線の一部・佐世保線・大村線)
・熊本県下熊本ヨリ三角ニ至ル鉄道及宇土ヨリ分岐シ八代ヲ経テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鉄道(三角線・肥薩線・鹿児島本線の一部)
・熊本県下熊本ヨリ大分県下大分ニ至ル鉄道(豊肥本線)
・福岡県下小倉ヨリ大分県下大分宮崎県下宮崎ヲ経テ鹿児島県下鹿児島ニ至ル鉄道(日豊本線)
・福岡県下飯塚ヨリ原田ニ至ル鉄道(筑豊本線の一部)
・福岡県下久留米ヨリ山鹿ヲ経テ熊本県下熊本ニ至ル鉄道(鹿児島本線の一部)

〇「北海道鉄道敷設法」の予定鉄道線路

・石狩国旭川ヨリ十勝国十勝太及釧路国厚岸ヲ経テ北見国網走ニ至ル鉄道(富良野線・根室本線の大部分・釧網本線)
・十勝国利別(現池田町域)ヨリ北見国相ノ内ニ釧路国厚岸ヨリ根室国根室ニ至ル鉄道(池北線・根室本線の一部)
・石狩国旭川ヨリ北見国宗谷ニ至ル鉄道(宗谷本線・天北線)
・石狩国雨竜原野ヨリ天塩国増毛ニ至ル鉄道(留萌本線)
・天塩国奈与呂ヨリ北見国網走ニ至ル鉄道(名寄本線・湧網線)
・後志国小樽ヨリ渡島国函館ニ至ル鉄道(函館本線の一部)
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