ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年06月

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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、小説家・中国文学者柴田錬三郎の亡くなくなった日です。
 柴田錬三郎(しばた れんざぶろう)は、大正時代の1917年(大正6)3月26日に、岡山県邑久郡鶴山村(現在の備前市)の地主だった父・柴田知太の三男として生まれましたが、本姓は斎藤といいました。旧制第二岡山中学校を経て、慶應義塾大学予科へ入学し、在学中に、『十円紙幣』を「三田文學」に発表します。
 1940年(昭和15)に、齋藤栄子と結婚して、齋藤家の婿養子となり、同年慶應義塾大学文学部支那文学科卒業しました。卒業論文は『魯迅論』で、魯迅に傾倒する一方キリシタンの知識も蓄積します。
 はじめ、内国貯金銀行、その後、月刊誌『書道』の編集部に就職、日本出版協会にも勤めましたが、1942年(昭和17)に召集されました。南方に派遣され、乗船が撃沈されたものの、漂流後奇跡的に生還します。
 太平洋戦争後は、『日本読書新聞』の再刊に奔走、編集者生活を経て、1949年(昭和24)から文筆に専念するようになりました。1951年(昭和26)に『イエスの裔(すえ)』で直木賞を受賞し、1956年「週刊新潮」の創刊とともに連載された『眠狂四郎無頼控』は、人気を博して剣豪小説ブームに先鞭をつけます。
 現代小説、伝奇小説なども手掛け、1970年(昭和45)には、『柴錬三国志 英雄ここにあり』で吉川英治文学賞を受賞しました。ベストセラー作家として活躍し、テレビドラマ化されたものもありましたが、1978年(昭和53)6月30日に、東京において、61歳で亡くなっています。

〇柴田錬三郎の主要な著作

・『十円紙幣 』(1938年)
・『デス・マスク』(1951年)第25回芥川賞・第25回直木賞候補
・『イエスの裔 (すえ) 』(1951年)第26回直木賞受賞
・『真説河内山宗俊』(1952年)
・『眠狂四郎無頼控』(1956~58年)
・『剣は知っていた』(1957年)
・『血汐笛(ちしおぶえ)』(1958年)
・『赤い影法師』(1960年)
・『異常の門 夢殿転精神帖』(1960年)
・『図々しい奴』(1960~61年)
・『柴錬三国志 英雄ここにあり』(1970年)吉川英治文学賞受賞
・『木乃伊(みいら)館』(1971年)
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 今日は、1866年(慶応2)に、洋画家・政治家黒田清輝の生まれた日ですが、新暦では8月9日となります。
 黒田清輝(くろだ せいき)は、薩摩国鹿児島城下(現在の鹿児島県鹿児島市)において、薩摩藩士の父・黒田清兼の子として生まれましたが、幼名新太郎で、本名は「きよてる」と読みました。1871年(明治4)に、伯父黒田清綱の養嗣子となり、翌年上京して東京平河町の清綱邸で育ちます。
 初め東京外国語学校でフランス語を学び、1884年(明治17)に法律研究のためフランスへ私費留学しましたが、1886年(明治19)に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事し、外光派の画風を学びました。1891年(明治24)にパリのサロンで『読書』が、1893年(明治26)には『朝妝(ちょうしょう)』が入選します。
 同年に帰国し、翌年久米桂一郎と画塾天真道場を開設、1896年(明治29)には久米・藤島武二らと白馬会を創立しました。1898年(明治31)に東京美術学校西洋画科の初代教授となり、外光派を明治洋画壇の主流にのし上げます。
 1900年(明治33)文部省の命でフランスへ留学、滞在中にパリ万国博覧会に『湖畔』(1897年)、三部作『智・感・情』(1899年)を出品して、後者は銀賞を受賞しました。帰国後、1907年(明治40)の文展創設に際し審査員に推され、1910年(明治43)には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、1913年(大正2)には、国民美術協会創立に際し会頭に就任します。
 1917年(大正)には養父の死去により子爵を襲爵し、第5回貴族院子爵議員互選選挙にて当選、1920年(大正9)に貴族院議員に就任しました。
 1922年(大正11)には、帝国美術院第2代院長に就き、洋画界発展に寄与してきましたが、1924年(大正13)7月15日に、東京において、59歳で亡くなっています。

〇黒田清輝の主要な作品

・『アトリエ』(1890年)
・『読書』(1892年)パリのサロン入選、国指定重要文化財
・『舞妓』(1893年)国指定重要文化財
・『朝妝(ちょうしょう)』(1893年・焼失)パリのソシエテ・ナシオナル・デ・ボザール入選
・『湖畔』(1897年)パリ万国博覧会出品、国指定重要文化財
・『夕陽』(1898年)
・『昔語り』(1898年・焼失)
・三部作『智・感・情』(1899年)パリ万国博覧会銀賞受賞、国指定重要文化財
・『裸体婦人像』(1900年)
・『花野』(1907~15年)
・『野辺』(1907年)
・『鉄砲百合』(1909年)
・『桜島爆発図』(1914年)
・『梅林』(1924年)
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、福井地震(M7.1)が起こり、死者3,769人、負傷者22,203人を出した日です。
 福井地震(ふくいじしん)は、午後4時13分に福井地方で発生したマグニチュード7.1の直下型地震で、震源は福井県坂井郡丸岡町(現在の坂井市丸岡町)付近とされました。この地震によって、地表には現れませんでしたが、北より20°西に走行する長さ30~40kmの左ずれ水平断層が生じたと推定され、福井市では当時定められていた震度階級では最大の震度6(震度7はまだない)の揺れが生じます。
 この結果、地割れが発生し、多くの建物が倒壊、大火も起こり、死者・行方不明者3,769人、負傷者22,203人、家屋の全壊は36,184戸、半壊11,816戸、焼失3,851戸などの大きな被害が発生しました。福井市中心部は、太平洋戦争中の1945年(昭和20)7月19日の福井空襲によって、多くの建物が破壊・焼失(罹災世帯は21,992)し、いまだ復興途上でバラック建築が多かったため、倒壊がひどくなったとされています。鉄道・道路・橋梁・工場などの被害も大きく、経済的にも大きなダメージを受けました。
 尚、地震振動で堤防高も沈下し、1ヶ月後の集中豪雨で発生した九頭竜川堤防決壊にもつながったとされています。

〇明治時代以降に日本周辺で起きた被害の大きかった地震ワースト12

1. 関東地震[関東大震災](1923年9月1日)死者・行方不明者105,385人<マグニチュード7.9>
2. 東北地方太平洋沖地震[東日本大震災](2011年3月11日)死者・行方不明者22,010人<マグニチュード9.0>
3. 明治三陸地震(1896年6月15日)死者・行方不明者21,959人<マグニチュード8.2>
4. 濃尾地震(1891年10月28日)死者・行方不明者7,273人<マグニチュード8.0>
5. 兵庫県南部地震[阪神・淡路大震災](1995年1月17日)死者・行方不明者6,437人<マグニチュード7.3>
6. 福井地震(1948年6月28日)死者・行方不明者3,769人<マグニチュード7.1>
7. 昭和三陸地震(1933年3月3日)死者・行方不明者3,064人<マグニチュード8.1>
8. 北丹後地震(1927年3月7日)死者2,912人<マグニチュード7.3>
9. 三河地震(1945年1月13日)死者・行方不明者1,961人<マグニチュード6.8>
10,昭和南海地震(1946年12月21日)死者・行方不明者1,443人<マグニチュード8.0>
11.昭和東南海地震(1944年12月7日)死者・行方不明者1,223人<マグニチュード7.9>
12.鳥取地震(1943年9月10日)死者1,083人<マグニチュード7.2>
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 今日は、室町時代の1439年(永享11)に、飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上した日ですが、新暦では8月6日となります。
 『新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代の第21勅撰和歌集で、「二十一代集」の最後(勅撰集の最後)となりました。
 1433年(永享5年8月25)に後花園天皇の下命により、飛鳥井雅世が撰し、1439年(永享11年6月27日)に成立します。一条兼良の真名序・仮名序があり、20巻で2,144首が収載され、代表歌人は飛鳥井雅縁、藤原良経、後小松院、藤原俊成、藤原定家、頓阿、後鳥羽院、足利義教などとなりました。
 撰者の関係から、飛鳥井家、二条派、武家歌人などが重んじられ、『新古今和歌集』追随の傾向が顕著とされています。
 以後も勅撰集の計画はありましたが、応仁の乱のために中断し、これが最後の勅撰和歌集となりました。

〇勅撰和歌集とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

〇「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首
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 今日は、江戸時代後期の1833年(天保4)に、長州藩士・幕末明治維新期の政治家木戸孝允が生まれた日ですが、新暦では8月11日となります。
 木戸孝允(きど たかよし)は、長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市)で、藩医・和田昌景の子として生まれましたが、通称は小五郎と言いました。1840年(天保11)に、7歳で桂家(家禄150石)の養子となり、1849年(嘉永2)に吉田松陰の門弟となります。
 1852年(嘉永5)に江戸に出て斎藤弥九郎の下で剣術修業し塾頭となり、江川太郎左衛門に洋式砲術・兵術、中島三郎助に造船術などを学びました。1860年(万延元)、桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺)直後に水戸藩士西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結び、次第に高杉晋作、久坂玄瑞らと並んで尊攘派のリーダーとなっていきましたが、その一方で勝海舟、坂本竜馬、横井小楠ら開明派とも親交を持ちます。
 1862年(文久2)以降は藩政の要職に就き、翌年8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努めました。1864年(元治元)蛤御門の変(禁門の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走したのち、高杉晋作らの長州藩討幕派が同藩の実権を掌握すると帰藩し、諸藩から孤立を深める長州藩の中枢にあって藩政を支えます。
 1866年(慶応2)には薩長同盟を締結することに成功し、倒幕、王政復古運動を指導しました。1868年(明治元)には、新政府で参与となって、「五箇条の御誓文」の起草に当たり、1870年(明治3)には参議に昇進し、版籍奉還、ついで廃藩置県を通じて、統一政権の成立に指導的役割を果たします。
 翌年の岩倉遣外使節に副使として同行し、諸国の憲法その他の法制を担当して研究、帰国後は憲法の制定を建言しました。西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け、下野させたものの、1874年(明治7)の台湾出兵に反対して一時参議を辞任します。
 翌年の大阪会議後政府に復帰しましたが、このころから病気を得て要職から退き、西南戦争の最中、1877年(明治10)5月26日に京都において、45歳で亡くなりました。

〇木戸孝允関係略年表

・1833年(天保4) 長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市)で、藩医・和田昌景の子として生まれる
・1840年(天保11) 7歳で桂家(家禄150石)の養子となる
・1846年(弘化3) 内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門する
・1849年(嘉永2) 吉田松陰の門弟となる
・1852年(嘉永5) 江戸に出て斎藤弥九郎の下で剣術修業する
・1860年(万延元) 水戸藩士西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結ぶ
・1862年(文久2) 藩政の要職に就き、
・1863年(文久3) 8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努める
・1864年(元治元) 禁門の変(蛤御門の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走する
・1865年(慶応元) 藩主から木戸姓をもらい、貫治、準一郎と改め、松菊と号する
・1866年(慶応2) 薩長同盟を締結することに成功する
・1866年(慶応3) 長州藩を訪問した大久保利通、西郷らと討幕挙兵について協議する
・1868年(明治元) 新政府で参与となって、「五箇条の御誓文」の起草に当たる
・1870年(明治3) 参議に昇進する
・1871年(明治4) 岩倉遣外使節に副使として同行し、諸国の憲法その他の法制を担当して研究する
・1873年(明治6) 岩倉、大久保らと西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け下野させる
・1874年(明治7) 台湾出兵に反対して一時参議を辞任する
・1875年(明治8)8月 大阪会議に参加後、参議に復帰する
・1876年(明治9) 奥羽・北海道巡幸に随従する
・1877年(明治10)5月26日 京都において、45歳で亡くなる
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