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 今日は、江戸時代後期の1833年(天保4)に、長州藩士・幕末明治維新期の政治家木戸孝允が生まれた日ですが、新暦では8月11日となります。
 木戸孝允(きど たかよし)は、長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市)で、藩医・和田昌景の子として生まれましたが、通称は小五郎と言いました。1840年(天保11)に、7歳で桂家(家禄150石)の養子となり、1849年(嘉永2)に吉田松陰の門弟となります。
 1852年(嘉永5)に江戸に出て斎藤弥九郎の下で剣術修業し塾頭となり、江川太郎左衛門に洋式砲術・兵術、中島三郎助に造船術などを学びました。1860年(万延元)、桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺)直後に水戸藩士西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結び、次第に高杉晋作、久坂玄瑞らと並んで尊攘派のリーダーとなっていきましたが、その一方で勝海舟、坂本竜馬、横井小楠ら開明派とも親交を持ちます。
 1862年(文久2)以降は藩政の要職に就き、翌年8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努めました。1864年(元治元)蛤御門の変(禁門の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走したのち、高杉晋作らの長州藩討幕派が同藩の実権を掌握すると帰藩し、諸藩から孤立を深める長州藩の中枢にあって藩政を支えます。
 1866年(慶応2)には薩長同盟を締結することに成功し、倒幕、王政復古運動を指導しました。1868年(明治元)には、新政府で参与となって、「五箇条の御誓文」の起草に当たり、1870年(明治3)には参議に昇進し、版籍奉還、ついで廃藩置県を通じて、統一政権の成立に指導的役割を果たします。
 翌年の岩倉遣外使節に副使として同行し、諸国の憲法その他の法制を担当して研究、帰国後は憲法の制定を建言しました。西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け、下野させたものの、1874年(明治7)の台湾出兵に反対して一時参議を辞任します。
 翌年の大阪会議後政府に復帰しましたが、このころから病気を得て要職から退き、西南戦争の最中、1877年(明治10)5月26日に京都において、45歳で亡くなりました。

〇木戸孝允関係略年表

・1833年(天保4) 長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市)で、藩医・和田昌景の子として生まれる
・1840年(天保11) 7歳で桂家(家禄150石)の養子となる
・1846年(弘化3) 内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門する
・1849年(嘉永2) 吉田松陰の門弟となる
・1852年(嘉永5) 江戸に出て斎藤弥九郎の下で剣術修業する
・1860年(万延元) 水戸藩士西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結ぶ
・1862年(文久2) 藩政の要職に就き、
・1863年(文久3) 8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努める
・1864年(元治元) 禁門の変(蛤御門の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走する
・1865年(慶応元) 藩主から木戸姓をもらい、貫治、準一郎と改め、松菊と号する
・1866年(慶応2) 薩長同盟を締結することに成功する
・1866年(慶応3) 長州藩を訪問した大久保利通、西郷らと討幕挙兵について協議する
・1868年(明治元) 新政府で参与となって、「五箇条の御誓文」の起草に当たる
・1870年(明治3) 参議に昇進する
・1871年(明治4) 岩倉遣外使節に副使として同行し、諸国の憲法その他の法制を担当して研究する
・1873年(明治6) 岩倉、大久保らと西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け下野させる
・1874年(明治7) 台湾出兵に反対して一時参議を辞任する
・1875年(明治8)8月 大阪会議に参加後、参議に復帰する
・1876年(明治9) 奥羽・北海道巡幸に随従する
・1877年(明治10)5月26日 京都において、45歳で亡くなる